ドラゴンズ背番号物語「29」 中編

 鈴木孝政のエピソードの中編です。

 前回の最後に、1975~1977(昭和50~52)年には「日本一の速球王」と言われた、と書きました。しかしこの3年間は鈴木孝政にとって過酷な3年間でもありました。というのはこの期間、殆どがリリーフ登板だった(昭和50年は全登板67試合中60試合。51年は同60試合中57試合。52年は同57試合中49試合)にも関わらず、毎年規定投球回数(130イニング)に到達しました。つまり酷使されまくったのです。今のクローザーの様に、1イニング限定ではなく、3イニングくらい普通に投げていましたからね。そして勿論連投もあり、でした。

 さすがにその酷使がたたり肘を痛めてしまいました。翌昭和53年から昭和55年までの3年間の全登板数は32、24、35と激減。一時はトレード要員として、阪神の榊原良行内野手(衰えが見え始めた高木守道二塁手の後釜として)との交換トレードが成立寸前にまでなりました。またこの期間のある週の週刊ベースボールのインタビューでは、外傷ではない肘の痛みの辛さが周囲には理解されず、「鈴木孝政はサボっているだけだ」という心ない噂に涙ながらに悔しがっていたのが私の記憶にあります。また丁度この頃入れ替わる様に、スピードガンの申し子と言われた小松辰雄やクレバーなリリーフ投手と言われた牛島和彦がデビュー。鈴木孝政の存在感は薄くなるばかりでした。

 そして遂に、鈴木孝政がリリーフ投手失格となってしまった試合が昭和57年5月23日の県営宮城球場での対大洋戦。8回裏から鈴木孝政が登板。9回裏二死無走者まで9-6と中日がリード。誰もが中日の勝利を疑わなかったのですが、あろうことかここから3連続単打で満塁となり、最後は長崎啓二に逆転サヨナラ満塁本塁打を喰らってしまったのです。当時の近藤貞雄監督はこれ以降、鈴木をリリーフで起用することはなくなりました。ちなみにこの時の捕手木俣もこれ以降はスタメンで起用されることはなくなりました。なので木俣は今でも「オレから捕手の仕事をなくさせたのは孝政だ」と半分本気、半分冗談で言っていますね(笑)。 (後編に続く)

👇若かりし頃の鈴木と小松

👆おっちゃんになった鈴木と小松。この鈴木のサインは直筆です。