ドラゴンズ背番号物語「30」

 まいどまいど。久しぶりのドラゴンズ背番号物語です。肝心のドラゴンズがあまりにも弱いのでテンションが上がりませんが、逆にだからこそこのコーナーくらいは景気よくいかないとね(笑)。

 では早速、私がドラゴンズファンになった1971(昭和46)年からの30番を付けた人たちの一覧です👉水原茂監督(S46 )、豊永隆盛投手(S47 ~48)、広野功内野手(S49)、R・ローン外野手(S50 ~51)、芝池博明投手(S52 )、中利夫監督(S53~55)、郭源治投手(S56~60)、山田和利内野手(S61~H1)、ディステファーノ外野手(H2)、小松崎善久外野手(H3)、若林隆信投手(H4 途中)、Aパウエル外野手(H4途中~9)、鶴田泰投手(H10 ~12)、曹俊揚投手(H13 ~14)、小林正人投手(H15~16)、石井裕也投手(H17 ~19)、小池正晃外野手(H20途中)、石井裕也投手(H20途中)、野本圭外野手(H21)、森野将彦内野手(H22~25)、阿知羅拓馬投手(H26~R2)、三好大倫外野手(R3~現在)

 まあ一番実績もあり、印象深いのはAパウエルですね~。チャンスに弱く、印象が薄いと言われますけど、3年連続(H6~8)の首位打者ですよ。そして在籍最終年のH9は星野監督とやりあったらしいです。なかなか男気がありますね。また、旬の男優の山田裕貴の父親は山田和利内野手であることは有名な話ですよね。しかしこのなかで私が今回ピックアップするのは、選手ではなく水原茂監督です。

 そもそも水原茂監督を知っている人自体が少ないでしょうね(笑)。水原氏は慶応大→巨人で活躍。監督としても巨人と東映を見事に日本一にさせた名将です。そんな、宿敵巨人の監督をしていたにもかかわらず水原氏にドラゴンズの再建をお願いするとは、当時のドラゴンズ球団の再建への本気度を感じます。

 1969(昭和44)年からドラゴンズの監督になりました。その時の背番号は68番。さすがに名将といえども、前年は最下位に甘んじたチームを再建するのは容易ではありませんでした。1年目は59勝65敗6分の4位に終わりました。しかしこの名将はドラゴンズの将来を見据えて、新人の星野仙一投手(明治大学)や島谷金二内野手(四国電力)を辛抱強く起用しました。翌1970(昭和45)年は野球界を襲った「黒い霧事件」でエースだった小川健太郎投手が球界を去ることになり、また確執が噂されていた江藤慎一外野手をロッテに放出。チームは激しく動きました。結果、この年の成績は55勝70敗5分で前年よりも後退し5位。しかし明るい話題もありました。谷沢健一外野手(早稲田大学)が新人王を獲得。同じく新人の松本幸行投手(デュプロ印刷)や渋谷幸春投手(四国電力)も活躍しました。また2年目を迎えた星野投手は10勝をマークし、投手陣のまとめ役的な存在になっていきました。そして勝負の3年目の1971(昭和46)年。水原監督は背番号を、監督の背番号と言われる「30」(東京6大学ではどの大学の監督も背番号は30)に変更して臨みました。この年も若い力が台頭します。新人の稲葉光雄投手(日本軽金属)は6勝をマーク。特に巨人戦に強く、チームも対巨人戦に4年ぶりに勝ち越し(15勝11敗)ました。また6月17日にはこの日一軍に昇格したばかりの高卒3年目の大島康徳外野手(中津工業)がバックスクリーンに特大の2ランホームランを放ち鮮烈デビューしました。最終的には65勝60敗5分で2位になり、花道を飾りました。

 ドラゴンズファンの皆様ならもうおわかりですよね。ここに挙げた選手達が1974(昭和49)年に大活躍。ドラゴンズの20年ぶりのセ・リーグ優勝、巨人のV10 阻止に繋がっていくのです。つまり優勝した時の監督はウォリー与那嶺さんでしたが、その基礎を築いたのは間違いなくこの水原さんだったのです。

 ドラゴンズを2回優勝させた星野さんは生前「こいつをチームの中心選手に育てる、と決めたら、あとは指導者の根気と覚悟が必要。新人や若手選手の育て方は随分、水原監督に学ばせてもらったなぁ」と言っていました。

 今の立浪監督には、将来のドラゴンズを背負って立つであろう細川、根尾、石川昂、岡林、ブライト健太、鵜飼、高橋などを、自分が星野さんに育ててもらった様に根気よく育ててほしい、と感じています。