ドラゴンズ背番号物語「33」 前編

 まいどまいど。

 今回は「33」を取り上げます。この背番号と言えば、あの人しかいないですねぇ。ま、一応他の人も見てみましょうか(笑)。

 田辺修投手(S45~47)、豊島寛捕手(S48~53)、中田宗男投手(S54~58)、山田和利内野手(S59~60)、郭源治投手(S61~H8)、小山伸一郎投手(H9~16)、金剛弘樹投手(H17~18)、平井正史投手(H19~24)、杉山翔太捕手(H25)、祖父江大輔投手(H26~現在)

 殆どが投手で右腕。一人当たりが付けた年数も平均すれば長い方ですね。中田宗男はこの前までドラゴンズのスカウト部長をやっていて、星野監督や落合監督と戦って(?)いましたね。山田和利の息子は人気俳優になっています。平井正史もオリックスから移籍して豪速球で活躍してくれました。そして今は我が母校(愛知大)の後輩で、眼光鋭い男。勝利の方程式を担う祖父江大輔が頑張ってくれています。そんななか、今回取り上げるのはやはりこの人我らがヒーロー「踊る守護神」郭源治です。2回に分けてお伝えします。

 昭和46年以降のドラゴンズのリリーフエースと言えば、星野仙一→鈴木孝政→小松辰雄→牛島和彦→郭源治→与田剛→宣銅烈→ギャラード→岩瀬仁紀→マルチネス と続きますが、私の中ではこの郭源治と今のマルチネスが最も安定感があると感じています。勿論、これは人によりイメージが異なるので何とも言えませんが。

 郭は1981(昭和56)年の夏に兵役を終えて来日しました。所持金は数千円で荷物は風呂敷1つだったのは有名な話です。デビュー戦は今でも鮮明に覚えています。横浜スタジアムの大洋戦でした。当時は球速144Kも出れば快速球だったのに、いきなり151K出したのには驚きました。バッタバッタと大洋の打者を打ち取り、見事、初登板初勝利。巨人の江川みたいになりたいと付けた背番号30(当時)。本当に中日に江川が入団したような感覚でした。それから数年は先発投手として、2年目 9勝7敗、3年目 10勝10敗、4年目 13勝11敗、5年目 11勝11敗、6年目(この年から背番号33) 11勝10敗という成績を残しました。

 転機はこの6年目のオフ。当時のリリーフエースの牛島が落合との4対1の交換トレードでロッテに移籍してしまいます。このトレードを決めた星野監督は牛島に代わるリリーフエースに郭を指名しました。周囲は郭のハートの弱さを指摘、「郭にリリーフエースは無理だ」と。郭本人も「失敗すれば先発投手の勝利を消してしまうリリーフ投手の辛さを牛島を見て感じていたので、自分はやりたくない」と言っていました。しかし星野監督は「郭は先発だと集中力が続かず、10勝するが10敗もする。あれだけの球威がありながら全く勿体ない。短いイニングの方が郭の良さが発揮される」と全く意に介さず。勿論、郭も星野監督に逆らえるわけもなく(笑)、星野監督の第一次政権の初年にあたる1987(昭和62)年からリリーフに配置転換されました。これが大ヒット。その年は4勝3敗26セーブでセーブ王。翌年も7勝6敗37セーブで見事、セーブ王。そしてドラゴンズの優勝に大貢献したので、何とMVPにも選出されました。あの選手に超厳しい星野監督が、郭にだけは「源治で負けたならしゃあない、と割り切れる唯一の投手」とまで評価していました。星野監督が郭に厳しく当たるのは打者に対して「弱気で逃げのピッチング」をした時。マウンドに行って「てめぇ、逃げて打たれて帰ってきたら承知せんぞ!ぶっ殺すからな!」と脅したそうです。ま、これも最初のうちだけだったそうで、そのうち星野監督がマウンドに来ると郭の方から「監督、大丈夫、大丈夫。ちゃんと抑えるから。それより、せっかくマウンドに来てテレビに映ってるんだから、怖い顔せずに笑った方がいいよ」とかの冗談を平気でかますようになったらしく、星野監督を苦笑いさせていたそうです。

つづきは後編で。