ドラゴンズ背番号物語「34」 中編

 まいどまいど。レジェンド山本昌の物語の中編です。

 第一次星野政権の初年度は1987(昭和62)年。山本昌もこの年、初めて開幕戦にベンチ入りしました。しかし気合は空回り。結果的にこの年は3試合に登板しただけで左ひじを痛めてしまい、戦線離脱。防御率は何と16.20。2年連続で2桁防御率という恐ろしく不名誉な成績でした。そしてこの年の8月にはあの近藤真一が初登板でノーヒット・ノーランという鮮烈デビューを果たしました。同じ高卒左腕で、3年後輩です。「もう自分のチーム内での立ち位置は無いな。完全にこのシーズンオフに自分はクビになる」と覚悟を決めたそうです。

 しかし絶対的に投手の数が少なかったので、何とかクビは免れましたが、毎日が不安との闘いだったそうです。そして明けて1988(昭和63)年。更なる悲劇が山本昌を襲います。「今年こそは」と意気込んで迎えたこの年。山本昌は前半のキャンプ地沖縄でのオープン戦の開幕投手に選ばれましたが、めった打ちされてしまいます。試合中に星野監督から「死ぬまで走っとけ!(怒)」と言われて、実際に夜の8時頃までずっと走っていた、ではなく走らされていたそうです(マネジャーが「もう止めていいぞ」と言いにきてくれてようやく終わった)。

 更にこの後、山本昌は米国ベロビーチキャンプのメンバーにも選ばれました。この理由がスゴイ。実はこの米国キャンプの後、将来を嘱望されている若手4人(投手/西村、内野手/藤王・前原、外野手/神山)は、米国に残って野球留学することが決まっていました。しかし見ていただいてわかる様に、投手は西村しかいないので星野監督が「もう1人、山本を付けとけ。西村の面倒くらいは見れるやろ」のツルの一声で山本昌の米国居残りが決まったのです。要は後輩の西村投手のお世話係的役割としてです。

 そんなプロセスを知らない山本昌は、キャンプ終盤になって米国留学を言い渡されます。本人は今年に勝負を賭けるつもりでいたのに「使えないので米国に居残り」「日本では戦力とみなされていない」と捉え、大ショックを受けました。そしてその大ショックは段々と不貞腐れた気持ちに変わり「日本に帰りたい」「もうどうせクビなんだから、やる気なんて出るわけがない」などと悶々としていたのです。星野監督やコーチも帰国してしまって、山本昌にはアイク生原さん(ロサンゼルス・ドジャースのピーター・オマリー会長の補佐で、この米国キャンプが出来たのもこの人のおかげ 以下:アイクさん)という人がついて指導することになりました。しかし人間は何が幸いするかわかりませんねぇ。このアイクさんとの出会いが山本昌の野球人生を大きく変えます。これも山本昌の持つ「運」ですねぇ。

 このアイクさん、野球の経験はあるもののプロ野球の選手やコーチの経験は無いので、山本昌は心の中で「何でプロのオレがアマチュアに教えを乞わなければいけないんだ?」と余計に不貞腐れました。ましてや教える内容も「野球をやれることに感謝しなさい」とか「低めに投球すること」とか「ボールは我慢して前で離すこと」とか「ストライクを先行させること」とか基本的なことばかりで、最初は全く信用していなかったそうです。

 しかし最初は不貞腐れていた山本昌ですが、あまりにアイクさんが熱心に指導するので、段々、アイクさんに申し訳なくなり、自分の態度が恥ずかしくなっていったそうです。とはいえ、いきなり技術レベルが上がったわけでもありません。実際にアイクさんが山本昌のピッチングをドジャースの有名OB投手に見せたのですが、その人は「アイク、あの日本人の投手は使えないよ」とダメ出ししてきました。またドジャースでスクリューボールで一躍名を上げたF・バレンズエラの投球も見せたのですが、カーブの様なあまりの曲がり方の凄さに「自分には投げられるわけがない」と逆にショックを受けてしまいました。失意の中、2か月後のある日、山本昌の野球人生を大きく変えた出会いが待っていました。 ※続きは次回に。

👇下の画像の「90」番を付けているのがアイク生原さん