ドラゴンズ背番号物語「40」

 まいどまいどです。今回は40番を取り上げます。1971(昭和46)年以降、こんな人が付けてきました。

 大島康徳外野手(昭和44~51)、藤波行雄外野手(昭和52~62)、音重鎮外野手(昭和63~平成2)、南牟礼豊蔵外野手(平成3~5)、清水雅治外野手(平成6)、大野久外野手(平成7)、益田大介外野手(平成8~13)、森章剛外野手(平成14~17)、小田幸平捕手(平成18)、西川明投手(平成19~22)、平田良介外野手(平成23~25)、桂依央利捕手(平成26~29)、石川翔投手(平成30~令和3)、森山暁生投手(令和5) 今年は現状、空き番号です。

 大島と藤波がそれぞれ8年間と11年間つけましたが、それ以降は益田の6年間を除いて全員が短命ですね。今回はその大島を取り上げます。

 大島には「5」のイメージを持っている方も多いでしょうね。ドラゴンズには19年間在籍し、後半の11年間を「5」で過ごしましたからねぇ。しかし私のなかでは「40」でデビューした大島があまりにも鮮烈でした。大島は中学時代まで主にバレーボール選手で、出身地の大分県の選抜チームのレギュラーでした。主に、と書いたのは相撲部からも助っ人を頼まれて活躍したからです。その相撲の大会をたまたま中津工業高校の野球部の監督が観に来ていて、大島に惚れ込みスカウトしました。野球の経験がなかった大島は当初、全く乗り気ではありませんでしたが、スパイクとグローブをプレゼントされたことをきっかけに入学して野球を始めました。かなり異色のキャリアですね。

 プロには投手として入団しましたが、当時の本多二軍監督やあの大御所の水原監督が直ぐに打者としての素質を見抜き、外野手に転向させました。最初の2年間は二軍生活。3年目の昭和46年6月、当時の正一塁手の外国人ジョン・ミラーが故障し、一軍に昇格。デビュー戦(中日球場 対ヤクルト戦)でいきなりバックスクリーンの上をいくとてつもなく大きな本塁打を放ちました。この試合、私は東海ラジオで聴いていて、当時の実況アナウンサーが「試合には負けましたが、明日につながる大きなホームランを打った若手(大島のこと)が鮮烈デビューを飾りました!」とと絶叫していたことを覚えています。またちょうど、水原監督がチーム若返り策の真っただ中だったこともあり、起用されることが増えました。大きいのも打つ反面、粗削りで三振も多く、いつもベンチに帰ってから直ぐに水原監督に大声で「すいませんでしたぁ~!」と謝っていたという、初々しいエピソードもあります。

 昭和49年には故障した正三塁手の島谷に代わって三塁手としても出場。この年のドラゴンズの優勝に貢献しました。優勝のビールかけの時に島谷から「ヤス(大島のこと)、お前がオレの故障中にカバーしてくれたおかげで優勝出来たんや。ホンマ、ありがとう」と言われて大感激したそうです。また大島の代名詞である「一発長打」はこの年の「燃えよ、ドラゴンズ」の歌詞から生まれたものであることは、ドラゴンズファンなら誰もがご存知ですよね。

 昭和51年にはシーズン代打本塁打7本の日本記録も樹立しましたが、逆に言えばこれはレギュラーになれていないということでもあり、大島としては素直に喜べなかったそうです。

 で、心機一転、昭和52年からは背番号を5に変更。島谷が阪急にトレードになったこともあって、正三塁手となりました。その後、一塁手に転向しましたが、昭和55年4月に車で交通事故を起こしてしまい、レギュラーの座を復活してきた谷沢に奪われてしまいました。しかし持ち前の負けん気と長打力で、今度は左翼手として復活し、昭和57年の優勝に大貢献。特に9月には26日の阪神戦と28日の巨人戦に連続してサヨナラヒットを放つという、勝負強さを発揮しました。

 その後は昭和62年までドラゴンズに在籍しましたが、兄貴と慕う星野監督から「他球団の野球も見て勉強して来い」と言われて、日本ハムにトレードとなりました。この時点で年齢は37歳だったのですが、当時の日本ハムは慢性的な得点力不足だったことと大島をよく知る近藤貞雄(昭和57年の中日優勝の時の監督)が監督だったこともあり、レギュラー一塁手として活躍。当時としては最年長記録であった39歳10か月で2000本安打も達成しました。

 現役引退後は中日には戻れませんでしたが、日本ハムで監督業も経験しました。しかし残念ながら、2021年6月30日に大腸ガンのため都内の病院で死去しました。

 星野監督が亡くなった時に、「星野さんは自分もガンだったのに、それを全く感じさせず、オレにガンなんかに負けちゃいかんぞ!、と激励してくれたのに・・・」と涙ながらに絶句していたことも思い出されます。

 元気者で明るい性格で好きな選手の一人だっただけに、一度は監督かコーチとしてドラゴンズのユニホームを着て欲しかったなぁ。