ドラゴンズ背番号物語「41」 特別編

 最後に。この谷沢と星野さんとの関係について書きます。

 この2人は同じ昭和22年生まれですが、星野さんが1月、谷沢は9月生まれなので、学年が1つ違います。東京6大学時代は2年間、明治のエース星野と早稲田の主砲谷沢として戦いました。中日入団から5年目くらいまでは、毎年オフになると2人揃って広島の整体の先生のところに泊りがけでオーバーホールに行く間柄だったようです。しかしちょうど谷沢が初の首位打者を獲得した前年(昭和50年)くらいから、B型谷沢のマイペースな性格がチーム内で問題になったようです。つまり谷沢はチームが試合に負けても自分が2安打とか3安打とか打つとご機嫌で、逆に自分が無安打だとチームが勝利しても仏頂面だったそうです。1年先輩の星野さんはこれを良しとせず、段々2人の間に溝が出来ました。「星野と谷沢は犬猿の仲」という噂が中日ファンのなかでも広まっていました。

 その後、谷沢が奇跡の復活をするようになると、人間的に苦労した谷沢がシーズン開幕前に田尾や宇野や中尾などを自宅に招き決起集会的な食事会を開くようになったり(別に谷沢が派閥を作りたがっていたわけでもない)、遠征先で一緒に食事をする頻度が増えたりしました。そうすると今度は、チームリーダーを自負していた星野さんの方が面白くなく、例えば田尾と共通の知り合いの車屋さんに「これからは田尾と付き合うな」というプレッシャーをかけました。驚いた車屋さんが田尾に「星野さんが田尾とは付き合うな、と言ってたけど、星野さんと何かあったのか?」と訊きました。今度は身に覚えのない田尾が驚きました。直情型の田尾は直ぐに星野さんの家に行って「星野さん、私、星野さんに何か失礼なことをしたでしょうか?」と問いました。すると星野さんは最初はむにゃむにゃ言っていたけど、最後の方には谷沢と食事をすることが面白くない、ということを言ったそうです(この話は田尾が自身のYou Tubeで公表しています)。

 私は星野さん大好き人間ですが、このエピソードにはメチャ、ガッカリしましたねぇ。女々しいというか、男らしくないというか・・・。でも流石にこれはまずいと思ったのか、星野さんはある行動に出ます。それは1982年のドラゴンズ優勝の近藤監督の胴上げの時のことです。

 一塁手だった谷沢は近藤監督の真下で胴上げをしていました。するとベンチからすごい勢いで突っ走ってきた星野さんがその谷沢をかなり強引に引っ張り出し、2人で力強く抱き合いました。その後、肩を組んで一緒に再度胴上げの輪に加わっていました。※下の画像でHIRANO 57の右前にいるのが右手にファーストミットを持った谷沢(帽子を被っておらず背番号41が少し見える)。その谷沢と肩を組んでいるのが星野さん(HIRANO 57の左前)。

 私はこの時の星野さんの心境をどうしても知りたくて、生前の星野さんのホームページで直接訊いたことがあります。その時の返事がこれ(「なかお・にむら」は星野さんのホームページ上の私のペンネームです)。👇

 まあお互いにスポーツマンで、大学時代からの好敵手であり、同じチームで投打の大黒柱だったわけですから、最後に星野さんがチームリーダーとしての思いを託した、ということでしょうか。

 谷沢は昭和61年の秋に17年間の現役生活に終止符を打って引退しました。その時も新監督に就任した星野さんが不仲だった谷沢を「監督谷沢は選手谷沢を使えるか?」と引導を渡した、という様な噂が広まりましたが、谷沢は星野さんと話す前に実は既に自身で引退を決めていた、と自身のYou Tubeで語っています。ただ、谷沢としてはもう少し現役を続けたい意向は持っていたので、ある人を通じて他球団へ移籍することも考えた様ですが、その話がボツになった時点でドラゴンズ一筋で現役を終えようと決心したようです。ま、マスコミは自身の媒体が売れるようにするためには一つの事実も大袈裟に、あるいは歪曲して書く、ということでしょうね。

 そんな谷沢のバットマンとしての最後の意地が翌昭和62年春の引退試合で炸裂しました。見事なホームラン、力強い最後の引退挨拶の動画をご覧ください。カッコイイです。