ドラゴンズ背番号物語「47」 ノーヒッター&MVP 野口茂樹

 まいどまいど。ドラゴンズ背番号物語です。

 今回は「47」。この番号で大成したのはこの野口しかいませんね。野口以外では、地元名城大学出身で代走専門だった盛田嘉哉外野手(S46~49)やパンチ力のある左打ちの関東孝夫内野手(S51~56)とか一時正捕手に最も近かった松井雅人捕手(H22~25)などいますが、殆ど記憶にない選手ばかりですよね。

 で、野口です。野口は愛媛県の丹原高校の卒業です。決して野球の名門校ではありません。それもそのはず、「競争をするのは嫌だ」という理由で甲子園名門校からの誘いを全て断っていたのです。しかし「四国のドクターK」と称され、1993(平成5)年にドラフト3位でドラゴンズに入団しました。最初の2年間は背番号「57」でした。

 コントロール難で四球で自滅することが多くなかなか目が出ませんでしたが、4年目の1996(平成8)年に星野監督から厳しい指導を受けます。この年のオープン戦で登板するも、やはり自滅し降板。すると星野監督から「そこにずっと立っとけ!」と怒鳴られ、多数の観客の目の前で試合終了までベンチ横に立たされ続けました。水が入ったバケツを持たされたまま立たされたこともあります。開幕してからも不調で2軍降格させられ、更には丸刈りまで命じられた。まるでプロとは思えぬ、高校生に接する様な方法だったのです。

 しかしその強烈な指導方法が実を結びました。この年の8月11日には「プロ初完封」「対巨人戦初勝利」「ノーヒットノーラン」の3つを一度に達成してしまいました。その時の試合終盤の動画がこれ。

 更に1998年には、この年に投手コーチに就任した宮田征典氏の指導でコントロールが飛躍的に改善され、14勝9敗と大ブレーク。翌1999年にも19勝7敗と抜群の安定感で大活躍。星野ドラゴンズのセ・リーグ制覇に大きく貢献し、見事MVPに輝きました。その後はやや低調なシーズンが続き、2005年オフにFA宣言し、巨人に移籍しました。巨人には3年間在籍しましたが、やはり復活することは無く戦力外通告を受けました。更にその後も楽天のテストを受けたり、独立リーグにも身を置いたが、最終的に2011年に退団を決意しました。

 引退後は「奥様のご両親が経営する焼鳥屋を継ぐ」とも言われたが、現在は愛知県西尾市にある会社にサラリーマン(営業)として勤めています。

 余談ですが、堀場にはこの野口と都裕次郎が重なって見えます。顔ではなく、キャリアが何となく似ているんです。①どちらも田舎育ちで、決して野球の名門校卒ではない(都は滋賀県出身で堅田高校卒業) ②どちらも高卒の左腕投手 ③どちらも大活躍した時にチームを優勝に導いていて、タイトルも獲得している(都は1982年の優勝に貢献。その年の最高勝率投手) ④どちらもなかなか寮を出なかった などなど。

 2人とも記録よりも記憶に残る投手でした。