ドラゴンズ背番号物語 「1」

 プロ野球選手の代名詞である背番号。私がドラゴンズファンになった1971(昭和46)年から今年まで、ドラゴンズの背番号別に選手を紹介。毎回、私が独断と偏見で(笑)そのなかから1人をピックアップ。思い出やエピソードを書きます。※前回のブログでもこのコーナーを設けておりました。ある人から「是非もう一度、このコーナーを復活させて」とのリクエストがありました。

 今回は「1」です。いわゆるチームの顔になる選手ですよね。ただ、ドラゴンズの場合、途中からちょっと?マークが付きだしました。何はともあれ、「1」の系譜です。

 ★1963~1982(20年間) 高木守道 内野手→監督 ※説明の必要なし。ミスタードラゴンズ★1984~1987(4年間) 藤王康晴 内野手→外野手 ※地元享栄高校卒。大きな期待を寄せられたが、開花せず。この後、日本ハムに移籍★1988~1991(4年間) 近藤真市(真一) 投手→投手コーチ ※同じく享栄高校卒。ご存知、初登板でノーノー達成★1992~1997(6年間) 種田仁 内野手 ※安定した守備と玄人受けする打撃で活躍したが、ケガに泣いた★1999~2007(9年間) 福留孝介 内野手→外野手 ※今年からドラゴンズに復帰★2008~2014(7年間) 堂上直倫 内野手 ※レギュラー取れそうな時期もあったが、今は貴重なバイプレーヤーであり代打要員★2015~2018(4年間) 友永翔太 外野手 ※この選手がこの番号を貰えた意味がサッパリわかりません★2019~2021(3年間) 京田陽太 内野手 ※遊撃の守備は誰もが評価。今年は打力をアップしないと、根尾が虎視眈々とレギュラーを狙っている。

 2008年以降の「1」の選手について、きっと高木さんはさぞ悲しかったでしょうね。で、今回ピックアップするのはその高木さんではなく(高木さんについては後日、別枠で書きます)、今年からドラゴンズに復帰する福留選手です。

 出身は鹿児島県ですが、高校は超名門のPL学園(大阪)へ入学。早速1年生の夏から5番打者を、秋には4番打者を任される。甲子園でも活躍し、高校卒業時のドラフト会議では7球団からの重複指名を受ける(高校生に対する7球団重複は現在も史上最多)。近鉄が交渉権を獲得するが、福留は以前から「中日と巨人以外の指名であれば社会人」と決めていたので、近鉄入団を拒否して日本生命へ。アトランタ五輪にも選ばれる(当時の五輪野球の日本代表の最年少記録)。3年後にドラゴンズを逆指名してドラフト1位で入団。

ルーキーイヤーから星野監督の方針でスタメンに積極的に起用された。初年度から打率.284、本塁打16と活躍したが、遊撃の守備は粗かった。その後、打撃も下降線をたどったが、4年目の2002年に外野手に転向し打撃が開花。打率.343で首位打者になり、巨人松井の三冠王を阻止。翌2003年には打率.313、34本塁打と長打力も兼ね備えた。更に2006年には打率.351で2回目の首位打者に輝く。このまま行けば、ミスタードラゴンズの称号も得られるような活躍だった。しかし2007年を終えた時点でFA宣言して、米大リーグのシカゴカブスに移籍してしまった。通算5年間の大リーグ、通算8年間の阪神でのキャリアを経て、今年からドラゴンズに復帰。

 毎年の様に「野手の全国区スター不在」と言われるドラゴンズにあって、福留は攻走守三拍子揃っており、全国区スターになれる逸材(実際2005年にはファン投票1位でのオールスターゲーム出場も決まっていたが、右ヒザの故障で泣く泣く出場を辞退)と思っていたので、FAでの移籍(その原因がお金の問題だったのか、落合監督と確執があったのか、単に更に上を目指したいという純粋な気持ちだったのかはわかりませんが)はとにかく残念で「ドラゴンズはもっと上手に引き留めることは出来んかったんかい!」と球団に怒りも覚えました。

 今年ドラゴンズに復帰した福留。勿論、昔よりいろんな点でレベルが下がっているのは仕方が無いですが、その真摯に野球に取り組む態度や後輩に対する面倒見の良さなども含めて、ドラゴンズに新風を入れてほしい。レフト辺りのレギュラー争いに加わり、ポジションを奪ってほしい、と思っているのは私だけでしょうかね?

 皆さんのなかで印象に残っている「1」は誰ですか?皆さんの独断と偏見大歓迎ですので(笑)、下のコメント欄からガンガン投稿してください。尚、実名OKならそのまま表示しますが、NGの場合はニックネームかイニシャルでお願いします。 ※次回は「2」