ドラゴンズ背番号物語「1」 プロ野球史上最高の二塁手 高木守道 番外編「第1次政権 監督時代」

 まいどまいどです。高木守道の最後は番外編「監督時代」です。1986(昭和61)年の山内監督休養による監督代行時代を除く、2度にわたる監督時代のエピソードを書きます。

 先ず今回は第1次高木政権(1992(平成4)年~1995(平成7)年の途中)のエピソードです。前年までの星野監督が選手に対し厳しさを前面に出したのとは逆に、高木監督は選手を大人扱いして任せることが多く、言葉を荒げたりましてや鉄拳制裁などはありませんでした。しかしそれは選手に「気の緩み」とか「甘え」を与えてしまったのです。

 それもあって初年度は最下位になってしまいました。2年目は今中、山本昌の両左腕が大車輪の活躍。ID野球の野村ヤクルトとの大接戦になりましたが、最後に息切れ。2位で終えました。そして衝撃だったのは、この年のオフから導入されたFA制度で、主砲の落合博満が何と何と宿敵の読売に移ってしまったことでした。落合は選手としてはやや衰えが感じられましたが、試合中に絶妙のタイミングで間を取ったり、ベンチとフィールド内の選手とのパイプ役となって現実に即した指示を出すなど、ゲームリーダーとして選手間の精神的支柱になっていたのでした。

 迎えた3年目。この年も今中と山本昌が大活躍。打っては落合の抜けた一塁手に専念した大豊が本塁打と打点の2冠を、外国人のパウエルが首位打者を獲得して打撃陣を引っ張りました。夏場までは読売と広島と三つ巴の争いでした。夏の終わりに中日も一時脱落しかけましたが何とか盛り返すと、今度は土壇場で読売が連敗を喫して大失速。そしてセ・リーグのペナントレース最終戦で、両チームが全くの同率で並び、勝った方が優勝という伝説の10・8決戦となりました。この10・8決戦はいろいろなところで今でも取り上げられますよね。槇原、斎藤、桑田という3本柱を惜しげもなく登板させた長嶋巨人と、いつも通りの戦いに徹してベンチ入りしていた山本昌や郭源治を温存した高木中日。残念ながら勝利の女神が高木中日に微笑むことはなく、3-6で負けてしまいました。そして試合後に、この年で辞めるつもりだった高木監督を翻意させようと、選手会長の川又やキャプテンの仁村徹らが監督室まで行って、説得したのは有名な話ですよね。

 4年目。リベンジの気持ちとは裏腹に故障者が続出し戦力ダウン。ロッテから獲得した外国人メル・ホールも全くの期待外れで、チームは最下位街道まっしぐら。高木監督は成績不振の責任を取って自ら監督を辞しました。そして高木監督の最後の試合となった6月2日の阪神戦では、イライラがたまっていたのか審判に暴行してしまい、退場となるというオマケまでついてしまいました。

 過去に書いた様に、高木守道は選手としては極めて勝負強く、冷静沈着なプレーを信条としていましたが、監督としてはその持ち味を出すことが出来ませんでしたね。口数も少ないので(これは現役時代も一緒)、選手やコーチとコミュニケーションを図るのがイマイチで、「高木監督は何を考えているのかわからない」という声も多かったようです。「名選手必ずしも名監督にならず」の典型でした。

 そんな高木監督ですが、17年後の2012年に再度、監督として復活することになります。これはまた次回に。