ドラゴンズ背番号物語「11」

 まいどまいどです。暑い日が続きますが、皆さんお元気ですか?私は元気ですが、先月までは忙し過ぎました。今月から仕事の請負先が変わり、少しは余裕が出来そうです。なので気分を新たにして、今後も極力、毎週月曜日の更新を続けていきたいと思います。継続することが一番なので、表記や内容をシンプルに変更しました。ご了承ください。

 さて今回の背番号は「11」です。1971年以降、過去はこんな人が付けてきました。川畑和人投手(1971)、三沢淳投手(1972~1984)、古川利行投手(1985~1987)、鎌仲政昭投手(1988~1991)、小野和幸投手(1992~1993)、平田洋投手(1994~1997)、川上憲伸投手(1998~2008)、岡田俊哉投手(2010~2011)、川上憲伸投手(2012~2015)、小笠原慎之介投手(2016~現在) 全て投手ですね。過去に他球団でも「11」を投手以外で付けていた選手ってあまり記憶がありませんねぇ。かつて大洋(←古~い(笑))と巨人に在籍したJ・シピン内野手と中日から日本ハムに移籍した時の大島康徳外野手くらいかなぁ。 

 で今回ピックアップするのは「11」を13年間背負った三沢でも、2回15年間背負った川上でもありません。平田洋投手(豊田大谷高校卒 1994年入団)です。「えっ?何故?」と思うかもしれませんね。何故なら、あの山本昌が「こんなエグイ球を投げる新人は見たことがなかった!」といつも平田のことを絶賛しているからです。確かに地元の超逸材がドラゴンズに入団した、と大騒ぎだった記憶が私にもあります。しかし結果的に平田は実働わずか5年間で未勝利のままプロ野球生活を終えることになりました。あるスポーツライターは「平田がプロで大成出来なかった理由の1つはプロ向きの性格でなかったことだ。年上の人間ばかりに囲まれ、気を遣いながら練習や寮生活を送ることが苦痛になっていた。またプロ入り後に体のキレを失ったことに加え、高校時代の投球を取り戻すことを目標に1年目の秋季キャンプでは小松コーチの下でトレーニングに取り組んだが、結果が出ないとフォーム改造を余儀なくされフォームを見失った」と述べています。

 このすごい素質を持っていた平田が大成しなかったことは、私にも沢山の教訓をくれました。一言で言えば、プロ野球に限らず人生って「その時その時の環境(職場や状況)に如何に馴染むか」「如何にいつも自分を見失わなわずに冷静にいられるか」が大きなポイントだと感じたからです。そして現在の平田のことを詳しく書いた中日スポーツの記事を見つけました。👇

 今回の読者の質問に応える企画は「地元ドラ1の今」。ドラフト1位で愛知・豊田大谷高から1994年、中日に入団した平田洋さん(44)の現在を紹介する。通算2試合登板で終わった現役時代を振り返るとともに、根尾、石川昂と2年連続で入団した地元出身の高卒ドラ1への思いも語った。 

 名鉄・豊田市駅から車で約10分。工場地帯の一角に「豊田鉄工広久手工場」がある。衝突時の衝撃を緩和する自動車部品を製造するこの工場で、かつての「ドラ1」は工長として現場を監督する仕事に携わっている。「簡単に言えば改善作業です。お客さんに品質を保証するために、決められた時間の中で同じ作業を同じ動作で繰り返してもらうのが大事。野球では反復練習はあっても、試合では打者と対戦するわけですから、毎日同じということはなかった。全然違いますよね」 

 平田さんは24歳で引退した。サラリーマンに転身して21年。小学5年で始めた野球歴よりも、サラリーマン歴の方が長くなった。自分の仕事について説明する口調も今では滑らかだ。豊田大谷高からドラフト1位で94年、中日に入団。最速148キロの将来のエース候補はまさに期待の星だった。プレッシャーも「目立つことが好きだった」とプラスに捉えた。プロ1年目のキャンプ。1軍で迎えた。初めてのブルペンですでに球界を代表する左腕だった今中、山本昌の球に衝撃を受けた。それでも怖いもの知らずの18歳。キャンプを過ごしながら「この世界で勝負できる」と自信も湧いていた。圧巻の球威に、周囲は舌を巻いていた。

 ところが落とし穴があった。キャンプでいきなりいろいろな人からアドバイスを受けた。「自分の引き出しが少なくて頭が整理できなかった。自分の投球を見失っていました」。高校でも厳しい練習はしてきたが、投球についてあれこれ指導を受けた経験はなかった。「高校の時の投げ方に戻せばいい」と言われ、何度も高校時代の写真や映像と見比べた。いくら形を戻そうとしても、感覚だけは取り戻せない。「プロでのいい思い出はなかったですね…」。「自分の投球」ができたと言えるのも、1年目の3月にあった2軍の試合(写真上)だけだった。 プロ5年目の10月に戦力外通告を受けた。「さみしさもありましたけど、一番はほっとしました。あの時には試合で投げても直球は130キロ台。『もう試合で投げなくてもいいんだ』と安心したのを覚えてます」と当時の心境を打ち明ける。

 引退直後に母校の関係者から誘われ、99年に今の会社に入った。「プロ野球の世界では負け組。でも社会人では勝ち組になってやるという強い思いでやってきました」。現場の作業員から班長となり、今はさらに一つ上の工長として32人の部下を持つ立場になった(写真下)。 テレビでプロ野球を見ることもない。それでも中日に根尾、石川昂が入団したことは耳に入る。「2人とも甲子園で全国制覇。すごい場所で試合をしているわけですから、芯の強さは持ってると思うんです」と自身が貫き通せなかった“我”の強さを感じている。「プロの変化球の切れは全然違いますし、すぐに活躍するのは難しい。常に自分で考え、自分で弱点を見つけ、課題に取り組むのが大切。下積みが長くなっても、大事なところはぶれない選手が成功すると思うんです」地元高卒ドラ1の先輩は、陰から2人の成長を見守る。「将来的には3番・根尾君、4番・石川君ですか。見てみたいですね」と頬を緩めた。 

▼豊田鉄工 愛知県豊田市に本社を置く自動車プレス部品メーカー。1946年創業で2018年度の連結売上高は3718億円。近年は軟式野球にも力を入れており、新年恒例の中日スポーツ杯争奪愛知県軟式野球新春選抜リーグ戦では19年に初出場ながら2位と躍進し、今年も4位と健闘した。

 う~ん、地元出身のドラ1トリオ 根尾、石川、高橋が赤字の部分をクリアして大成することを切に望みます!