今回は「14」。こんな選手が付けていました。谷沢健一外野手⇒内野手⇒外野手⇒内野手(1970~1975)、神垣雅行内野手(1977~1980)、Cスパイクス外野手(1981)、尾上旭内野手(1982~1984)、杉本正投手(1985~1986)、蓬莱昭彦外野手(1987~1988)、今中慎二投手(1989~2001)、平松一宏投手(2002~2005)、朝倉健太投手(2006~2015)、佐藤優投手(2016~2017)、谷本圭介投手(2018~2021)
谷沢は早稲田大学時代からずっと14を付けていたので、プロでも迷わず14を選んだそうです。しかし飛躍するのは7年目に41になってからですね。神垣は入団当初は5。3年目に大島に5を譲ったので14になりました。逆に尾上は入団当初が14でしたが、田尾の移籍に伴い4年目から2に変更。その田尾との交換で移籍してきたのが杉本で、最初の2年間は14を付け、その後は21に変更。その後の蓬莱も平松も谷本も移籍選手。朝倉と佐藤は背番号変更歴あり。こうみると、ドラ一筋で入団から引退まで14を付け続けたのは今中だけですね。今回はその今中をピックアップします。
ドラゴンズファンで今中慎二の名前を知らない人はいないでしょうね。この今中、とにかく普通の選手と違うんですね。そもそも左腕になったのも、幼少期に野球を始めた時にたまたま近くのおばちゃんが貸してくれたのが左腕用、つまり右手にはめるグローブだったから、という経緯です。野球は続けていたものの、それほど野球は好きではなかった。高校は強豪の大阪桐蔭に進みここでも活躍し、プロ12球団の全てのスカウトが注目する逸材になるのですが、本人は「プロ野球に行きたい」とは全く思っていなかったそうです。その証拠に、3年生の夏に大阪大会で負けて甲子園の道が閉ざされると、とにかく野球から解放されて遊びたくて仕方がなかったらしいです。普通、プロを目指す選手なら、体力や技術を落とさない様にある程度は練習を続けるんですけどね(笑)。それでも止む無くプロに入団することになった。
プロ1年目は1勝4敗でしたが、2年目には既に10勝6敗と大活躍。3年目も12勝13敗と活躍します。そして今中が飛躍したのは4年目のこと。あの落差と球速差の大きな超スローカーブを身に付けたのがこの年だったからです。この超スローカーブも、ケガの功名から生まれたものでした。ワンバウンドで自分めがけて飛んできた打球に思わず、利き手の左手を出してしまい、左手首を骨折。その後、骨折が完治しリハビリの意味もあって、手首のスナップを利かせないカーブを試しに投げてみたところ、これが本人もビックリするくらいに曲がる。骨折前に投げていたカーブとは天と地ほどの差だったのです。全盛期は速球が146キロ、カーブが92キロくらい。実に50キロ以上のスピード差があり、相手打者をキリキリ舞いさせました。我々ドラゴンズファンには何とも頼もしい投手でした。
今中は殆ど表情を変えずに投げるのであまり熱くなっていない様にも見えましたが、実は2つ拘りを持っていました。1つはチームの勝利=優勝に対してです。しかしこの点で今中は悲運でした。今中が入団する前の年にドラゴンズは優勝(1988年)。しかし今中の全盛期である1990年~1996年まではあと一歩のところで優勝を逃し続けました。その中には今中が先発したあの伝説の「10・8決戦」も入っていますが。そして故障で思う様な球が投げられなくなった1997年~2001年までの間にドラゴンズは一度、優勝しました(1999年)。つまり優勝経験が無いんですね、残念ながら。そしてもう1つの拘りは広島の前田智と巨人の落合との対戦でした。前田智には対戦成績以上に、見た目「全くやる気のない」振りをしていとも「簡単に」ヒットを打たれてしまう。これに非常に頭に来ていたようで、常に全て全力で投げ込んでいたそうです。落合には、あの10・8で3点目となるタイムリーテキサスヒットを打たれてから「今後、何があっても絶対に真っ向勝負をしよう。そして封じ込めてやろう」と強く思う様になったそうです。
在籍13年間の通算成績は91勝69敗。特筆すべきは74完投という数字。勝敗合計の約半分を自分1人で決めたわけです。分業全盛の今では考えられませんね。それだけ記憶に残る投手でした。個人的には再度、ドラゴンズの投手コーチをしてほしいですね。
上の画像は引退後に書いた自分自身のことを書いた本「悔いは、あります」。下の画像は現役時代の雄姿。

