彦野の6年目のシーズン(1988 昭和63年)の話です。この年の彦野は113試合に出場。打率.273、本塁打15、打点47と大活躍。星野ドラゴンズの初優勝に大貢献しました。更に特筆すべきはこの年から3年連続でゴールデングラブ賞を受賞していること。決して俊足ではありませんでしたが、肩が強く二塁走者を本塁で殺したりしていました。それで徐々に本塁へ突っ込む走者が減ってきたんですよね。これは目には見えないけど、立派なチーム貢献です。投手陣も喜んでいたらしいです。
彦野も完全に星野監督に見い出された選手なので、沢山鉄拳制裁を受けたかと思いきや、全く受けなかったそうです。その代わり(星野監督の怒りをかう前に)島野外野守備走塁コーチ(当時)が先回りして彦野を叱咤激励(このなかには多少の鉄拳も含む(笑))していたようです。
この年の10月7日の対ヤクルト戦(ナゴヤ球場)でドラゴンズがぶっちぎりで優勝を決めたのですが、確かその2日前の同じカードで彦野のバックホーム悪送球で失点を許してしまいました。するとその試合後に、島野コーチがノッカーとなって彦野がバックホームの練習を行っていました。一度、ナイター照明が消されたのですが、島野コーチが「その日のミスはその日に取り返そう」と言い彦野も直ぐにそれに納得したので、球場にお願いして再点灯してもらっての練習でした。これには星野監督もビックリ。と同時に「彦野のことはシマちゃん(島野コーチ)に任せておけば大丈夫」という気持ちになったそうです。
西武との日本シリーズでも活躍。愛知高校時代からのライバルだった工藤公康投手(愛工大名電)に初回先頭打者本塁打を浴びせました。👇(写真がボケボケで申し訳ございません)。

そして翌1989(平成元)年はパワーが更に増して、何と26本塁打を打ちました。オールスターゲームにも監督推薦で初選出。第2戦では日本ハムの若きエース西崎から決勝となるホームランを打ちました。そして当然ながらその試合のMVPになりました。またゴールデングラブ賞と同時にベストナインにも選ばれました。
更に翌1990(平成2)年にはオールスターにファン投票で選出され、ドラゴンズの顔となりました。
5年目からは順風満帆ともいえる彦野のプロ野球選手生活でしたが、1991(平成3)年にドラゴンズファンなら誰もが知っている大きな大きなケガをしてしまいます。
※つづきは次回

彦野ってバブル経済期のスターって感じでしたね。
バブル経済と共にスターになって、
バブルがはじけた頃大けがをしましたからね。
彦野の復活と共に日本経済も復活してくれれば
良かったんですが。
この頃の外野手って右投げ、右打ちが
まだたくさんいましたよね~
1990年代後半から2000年代は
右投げ左打ちの外野手が多くて
それに憧れたその頃の野球少年たちが
今の主力ですからね。
宗さん コメントをありがとうございます。バブル経済と絡めて彦野を語るなんて、流石インテリドラゴンズファン(?)ですね。