言わずと知れた立浪について書きます。

立浪は大阪出身。かつての野球の超名門校PL学園で鍛えられました。新入生の頃既に2学年上の清原から「お前、身体は小さいけどいいバッティングしてるなぁ」と言われたり、同じく2学年上の桑田から「コイツは将来間違いなく良い選手になるから、他の先輩からイジメられたりしないように守ってあげないといけない」と目を掛けられ、寮の同部屋に指名されました。そして3年生になると立浪はキャプテンになり、チームは甲子園で「春夏連覇」というとんでもない記録を打ち立てました。
そんな立浪とドラゴンズが結ばれたのは1987(昭和62)年秋のドラフト会議。南海と競合になりましたが、見事に星野監督が当たりくじを引き当てました。最初の監督が星野監督だったのも立浪にとっては超ラッキーなことでした。星野監督は「こいつは将来、素晴らしいチームリーダーになる」と見込んで、最初から遊撃手として立浪を起用することを決めたのです。そのため、合同キャンプをしたドジャースのトム・ラソーダ監督と一芝居を打って、それまでのレギュラー遊撃手だった宇野勝をわざわざ二塁手にコンバートさせました。
そして入団した1988(昭和63)年の開幕戦からスタメン(2番・遊撃)に抜擢されます。ドラゴンズとしては、「高卒野手の開幕戦出場は22年ぶり」という快挙でもありました。またこの年は巨人や広島と熾烈な優勝争いをしていました。星野監督としては「一日でも早くレギュラー遊撃手として一人前にして、戦力になってもらわないと」という思いもあって、中村武志とともに「移動日も休みなしでず~っと練習」の日々を送っていました。肉体的にも精神的にもヘトヘトの毎日でしたが、振り返ってみると「やはり若いうちに厳しい監督に出会えて指導していただいたことで、後々の強いスタミナ(肉体的にも精神的にも)を持つことが出来た。星野監督には本当に感謝の念しかない」と立浪は言っています。
そして見事に「新人王」を獲得。順風満帆なプロ野球人生を歩み始めた、ように思えました。しかし「好事魔多し」で、1年目から小柄な体ながら110試合に出場した疲労が蓄積し、2年目の1989(平成元)年に右肩を痛めてしまい、戦線離脱を余儀なくされてしまいました。ですのでこの年は30試合の出場にとどまりました。この時の心境を立浪は「野球が出来ない辛さ、他の選手のプレーをテレビで観るやるせなさ、というものを初めて知った。もう故障は絶対にしたくない、と強く思った」と言っていました。
そして立浪が書いた本のタイトル「負けん気」を正に体現します。翌1990(平成2)年、見事に立浪は復活しました。
続きは次回。