ドラゴンズ背番号物語「25」

 こんにちは。久しぶりのドラゴンズ背番号物語です。今回は25。先ずはその歴史から。

 伊熊博一内野手(1967~1971)、藤沢哲也投手(1972~1973)、鈴木博昭内野手(1974~1978)、豊田誠佑外野手(1979~1988)、西本聖投手(1989)、広橋公寿内野手(1990)、吉田太投手(1991~1994)、落合英二投手(1995)、門倉健投手(1996~1999)、小池秀郎投手(2000~2001)、前田新悟内野手(2002~2003)、中村公治外野手(2004~2005)、新井良太内野手(2006~2010)、武藤祐太投手(2011~2017)、佐藤優投手(2018~現在)

 投手、野手どちらが付けてもサマになる背番号ですね。このなかでピックアップしようと思っていたのは勿論豊田誠佑さんだったのですが、連載を載せましたから別の人にします。それはその豊田さんの後に1年間だけ付けた西本聖投手です。西本と言えば「ジャイアンツの投手」「江川のライバル」「孤高の投手」という印象が強く、一見ドラゴンズとは関係が薄い気がする人が多いのではないでしょうか?いえいえ、西本はドラゴンズとはなかなか面白い関係があるんですよ。

 先ず、西本と豊田さんの関係。この2人、年齢は同じです。豊田さんが10年間の現役生活のなかで最も印象に残った試合の1つとして挙げたのが、1984(昭和59)年の郡山の巨人戦での9回表二死無走者からの逆転2ランホームラン。詳細は下の連載記事に書いてありますが、打った相手は西本だったんですねぇ。まさか愛着ある背番号25を譲渡する相手が西本になるとは、この時の豊田さんは思ってもみなかったでしょうね。

 次に西本と落合の関係。落合がロッテからドラゴンズにトレードになったのは1986(昭和61)年のオフ。翌、1987(昭和62)年の開幕戦。セ・リーグ初見参の落合の前に立ちはだかったのが、巨人の開幕投手の西本です。全球シュートで徹底的に内角を攻め、4打数1安打に封じ込めました。この年の落合は他球団の投手からも厳しい内角攻めを受け、何と無冠に終わります。西本がこの年の落合の打撃を初っ端から狂わせたと言えるでしょう。落合にとっては憎き憎き西本だったのではないでしょうか?しかしその西本が今度はドラゴンズにやってきます。

 1988(昭和63)年のシーズンオフ。当時の巨人の投手コーチと相性があわずに成績も下降気味だった西本にトレードを申し込んだのが中日・星野監督でした。その当時は同じリーグのトレードはタブー。ましてや昔からのライバル球団である中日と巨人との間でのトレードなんてあるはずがない、というのが球界常識でした。しかしこのタブーを真っ向から破ったのが星野監督であり、相手の藤田監督でした。中日は交換相手に中尾を提示。巨人側が加茂川という投手を更に加えて、2対1のトレードが成立しました。これには本当に驚かされました。

 結果的にこのトレードは大成功。西本は翌1989(平成元)年、自身最初で最後となる20勝をあげました。そしてその内の確か8勝が古巣の巨人相手だったと思います。星野監督は西本が巨人時代から、西本の野球に取り組む厳しく真摯な姿勢を高く評価していたので、何としても西本を「プロ野球選手のお手本」としてドラゴンズに入団させ、チーム全体に刺激を与えたかった様です。そして西本もそんな星野監督の思いに見事に結果で応えたというわけです。ちなみに巨人に移籍した中尾も捕手として復活(中日時代の晩年はいろいろと理由があって外野手をやっていたので)。強気な内角攻めで斎藤雅樹をエースに育てました。この年、確か西本も中尾も「カムバック賞」を受賞したはずです。

 そして星野監督は2002年から阪神タイガースの監督に就任します。その年のオフには星野監督が西本を一軍投手コーチとして招き、2003年シーズンはブルペンを担当。チームはこの年に18年振りのリーグ優勝を果たしましたが、星野監督の勇退を機に自身も同年10月31日に退団しました。

 いかがでしたか?実は西本はドラゴンズとはなかなか深い縁があった、というお話でした。