ドラゴンズ背番号物語「29」 前編

 まいどまいどです。今回の背番号物語は29です。昭和46年以降のその歴史は、

佐藤進投手(S46)、川畑和人投手(S47)、鈴木孝政投手(S48~H1)、与田剛投手(H2~H7)、内藤尚行投手(H8)、山田貴志投手(H9~H10)、前田幸長投手(H11~H13 )、山井大介投手(H14~R3)、ジャリエル・ロドリゲス投手(R4~現在) です。

 もう皆さんも感じられたと思いますが、今までで最も背負った人数が少ない背番号ですね。つまり一人当たりの背負った年数が長い。1位は断トツで現役の17年間をこの29番だけで全うした鈴木孝政かと思ったら、実は山井大介が20年間でトップなんですね。鈴木が高卒入団で35歳くらいで引退したのに、山井の場合は奈良産業大学から社会人の河合楽器を経ての入団ですので、45歳くらいまで現役だったんですよね。スゴイ!

 そしてもう一つこの背番号の特徴は全選手が投手で、前田を除けば全選手が右腕投手だということ。なかなか他に例を見ない伝統ある背番号ですね。このなかでピックアップするのはやはり自分の世代の大ヒーロー鈴木孝政です。いろいろとエピソードがあるので3回に分けて書きます。

 鈴木は千葉県成東高校の出身。同期にはジャンボ仲根(日大桜ヶ丘高校)という選抜を制した投手が全国的に有名で、ほぼ無名の投手でした。なのでドラ1でこの鈴木が指名された時はビックリしました。2年目(1974、昭和49)の夏に彗星の如く颯爽とデビュー。この年のドラゴンズは巨人のV10 を阻止すべく壮絶な戦いを演じていました。そこにこの鈴木が現れ、王や長嶋をキリキリ舞いさせる快速球でバッタバッタと三振の山を築いてくれて、思い切り溜飲を下げてくれました。メチャカッコ良かった。そしてこの年のドラの優勝に大貢献してくれました。この後も主にリリーフ投手として大車輪の活躍。頼れる存在でしたねぇ。

 熱いハートの持ち主で、マウンド上で涙することもありました。特に印象的だったのは、1975(昭和50)年。当時、ヤクルトにロジャー・レポーズという左打ちの外国人選手がいました。春先は先発投手だった鈴木は、神宮で8回表終了までヤクルトに得点を与えません。しかしドラも無得点が続き0-0。迎えた8回裏にこのロジャーに決勝のソロホームランを打たれて完投しながらも敗戦投手に・・・。約2か月後、今度はナゴヤ球場で2-1とドラゴンズがリードで9回表を迎え、この回からマウンドに上がったのは鈴木。二死からランナーを1人出してしまい、迎えるはロジャー。少し嫌な予感はしたけど「今こそ2か月前のリベンジをしてくれるだろう」と必死にテレビの前で応援。が、むなしくも鈴木の投じた快速球はライトスタンド最前列へ運ばれてしまいます。ガックリとマウンド上で崩れ落ちる鈴木。立ち上がれず、一塁手の谷沢が手を貸してようやく立ち上がりました。何とかもう1人を抑えてマウンドを降りてベンチに帰る鈴木。その頬には涙が・・・。試合はそのままドラゴンズの逆転負け。

 この試合の後のミーティングで鈴木は、当時の与那嶺監督にメチャクチャ叱られたそうです。それは打たれたことではなく、打たれた後にマウンド上で見せた涙とショック度満点のその態度。「ショックなのはわかるが、ここで投手のお前があんな弱気な姿勢を見せたら、野手やベンチも意気消沈してしまい、ファイティングポーズが取れなくなってしまう。今後、絶対にあんな弱気な態度をマウンドで見せるな!勝敗の責任は監督にあるのだから、起用した監督が悪い、くらいに思って堂々としていろ」と。これ以降、鈴木はマウンド上で弱気な姿勢は見せないと心に誓ったそうです。

 1975~1977(昭和52)年くらいまでの間は未だスピードガンが無かったので正確な数値はわかりませんが、当時パ・リーグの阪急にいた山口高志投手と並んで日本一の速球王と呼ばれていました。           (次回に続く)