ドラゴンズ背番号物語「29」 後編

 鈴木孝政のエピソードの後編、最終です。

 1982(昭和57)年に逆転サヨナラ満塁本塁打を長崎に喰らってリリーフ失格となってしまった鈴木孝政ですが、同じ年の7月1日の対巨人戦(ナゴヤ球場)で見事に先発投手として復活します。この試合に今季3度目の先発をした鈴木。試合は0-0のまま続きました。6回裏、助っ人モッカがレフトスタンドへ13号ソロホームランを打ちました。その虎の子の1点を鈴木が守り抜いたのです。球数88球という超省エネ投法で何と入団10年目にしての初完封でした。👇

 この年、鈴木は最終的に9勝(7敗)でチームのリーグ優勝に貢献。勿論、規定投球回数にも達しました。余談ですが、この年の「燃えよ、ドラゴンズ!」の歌詞は、♬~不死鳥、孝政投げ抜いて~♪でしたが、まさにそんな感じでした。そして翌1983(昭和58)年も7勝4敗。更に翌1984(昭和59)年は16勝8敗とキャリア・ハイの成績。何とこの年のカムバック賞も受賞します。

 そして鈴木孝政が師と仰ぐ星野仙一さんが監督になった1987(昭和62)年も9勝6敗と踏ん張りましたが、チームの若返りを図った星野監督から引導を渡されます。

 1988(昭和63)年。日本シリーズで西武ライオンズに負けて名古屋に帰る新幹線の車中。星野監督から隣の席に座る様に命じられました。座ってはみたものの星野監督とは全く会話無し。名古屋駅に到着寸前になって星野監督から「来年、どうするんや?」と訊かれた(暗に「もう潮時や、引退せえ」という意味だということは直ぐに分かった)そうです。しかし鈴木の口から咄嗟に出たのは「もう1年だけやらせてください」という言葉。それを聞いた星野監督が今度は「そうか・・・。わかった。来年はもう二軍に落とさないから」という言葉で返したそうです。

 そして最後の1989(平成元)年。鈴木は何とも居心地が悪かったそうです。普通なら選手間でし烈に争う一軍投手枠。それを鈴木にだけは成績に関係なくお客さんの様にずっと確保してある。「プロ野球選手でありながら、プロ野球選手ではないような複雑な気持ちの一年間だった」と語っていました。

 なかなかドラマチックな鈴木孝政の17年間の現役生活でした。今はドラゴンズのOB会の会長をやっています。昔よりもすんごく太って、首が無くなってしまったのが残念かな(笑)。