まいどまいどです。今回の背番号物語は「34」。もうあの人しかいませんよね。でも一応、1971(昭和46)年から今までの歴史を振り返ります。
村上義則投手(S46~52)、小松辰雄投手(S53~58)、山本昌広投手(S59~H27 )、福敬登投手(H28 ~29、H31/R1~現在)
ありゃぁ、何と4人で終わってしまった(笑)。全員が投手で、一人当たりが結構長くつけたこの番号ですが、やはり山本昌は別格ですね。一度も背番号を変更することなく、現役を終えています。ではその山本昌をピックアップ。2回もしくは3回に分けて書きたいと思います。
山本昌本人も認めていますが、とにかくこの人ほど「運」に恵まれた人はいないですね。勿論「運も実力のウチ」なので、山本昌にはそれだけの実力がある、ってことなんですけどね。
先ず、プロに入った経緯から面白い。当時、日大藤沢高校の山本昌。神奈川県選抜チームの一員として韓国選抜軍と闘い9回1失点と好投しました。それをたまたま見ていたのが高木時夫スカウト。本当は他の選手のチェックに来たのですが、長身左腕投手に関心を持ちます。ドラフト5位で山本昌を指名。山本昌自身は「日大へ進んで、教員免許を取って先生になって、野球部の先生になろう」という堅実なプランを持っていたのですが、この指名にお父さんが大乗り気になってしまいました。何故ならお父さんは神奈川県人にも関わらず、大の中日ファンだったんですね。というわけで、ほぼ即に「中日ドラゴンズ 山本昌」が誕生しました。これが最初の「運」ですね。
入団は1983(昭和58)年秋のドラフト。ちなみに1位は超高校級スラッガーの藤王康晴選手、2位は仁村徹選手でした。しかし入団はしたものの全く目が出ず。2年間は一軍での登板は「0」。3年目(昭和61)年の終盤に1試合,1イニングもたず、2/3だけ投げて自責点2。防御率27.00の大乱調。さすがにクビを覚悟したようです。しかしこの3年目のシーズン終了後、2番目の「運」それも後になって考えれば、超強運がやって来ます。星野監督との出会いです。
「覚悟しておけ!」選手への強烈な第一声で就任した星野監督。この年のオフの浜松球場での秋季キャンプでも選手に睨みをきかせます。そしてある日、ブルペンで投球練習をしていた山本昌のところに星野監督がツカツカと歩み寄り「もうそろそろ肩も温まっただろ。全力で投げてみい」と言いました。それに対して山本昌は「いえ、これが全力です」と言いました。これが後々の大恩人になる星野監督との最初の会話でした。全力で投げているのに、そうは思えないほど山本昌の投球にはスピードもキレも無かったということでしょうね。「星野監督のあまりにもガッカリした顔は今でも忘れられない」と言っています。下の画像は4年目を迎えた春季キャンプで投球練習する山本昌。

34番はあの人しかいません。
金田正一なんちゃって
日本球界唯一の400勝投手ですが
もう知らない人のほうが多いですよね。
(ドラゴンズの選手じゃないし)
中日の34番は金田に劣らない
日本球界に記録も記憶も残す
あの人しかいませんよね。
元祖34の金田正一は享栄高校出身ですもんね。もしも中日に来ていたなら、歴史は大きく変わっていたでしょうね。