山本昌投手の最終回です。さて山本昌の運命を変えた出会いとは?それはジョゼブ・スパニュオーロというメキシコ人内野手でした。
この選手がある日の試合前のキャッチボールで、遊び半分でスクリューボールを投げていました。そこをたまたま通りかかった山本昌がその投げ方を訊くと、気軽に教えてくれました。それは人差し指を捻るのではなく、中指と薬指の間にボールを挟んで中指に力を入れる様に上から投げるという方法で、やってみると簡単に落ちた。その2日後、山本昌は大差がついた試合の敗戦処理的マウンドに立ちました。仲の良かったキャッチャーに新しくスクリューボールのサインを出す様に頼んだ。それで実際に投げてみるとこれが面白いように落ちて抑えられた、というのです。この後も何試合かで投げて結果が出ると、先発投手として起用されるようになり、遂に6月にはローテーション投手の仲間入り。所属球団だったベロビーチ・ドジャースの前期優勝に大貢献。1Aながらオールスターゲームにも出場しました。するとメジャーのいくつかの球団からオファーも入るようになりました。
勿論、恩師のアイクさんは日本にいる星野監督に、山本昌の活躍を逐一FAXで報告していました。当初、星野監督は山本昌を「そのままメジャーに行かせてやれや」と言っていたそうですが、当時の中山球団社長が「今年(1988年 昭和63年)はせっかく優勝出来るかも知れないんだから、勿体ない」と言って日本に帰国させたそうです。そして8月の終盤に帰国した山本昌は見違えるような投手になり、あれよあれよという間に2完封を含む5勝0敗の成績でドラゴンズの優勝に大貢献しました。秋の西武との日本シリーズでは工藤とも投げ合ったのです。
翌年も9勝9敗と活躍しましたが、更にこのオフに再度アメリカに行き、アイクさんと共にカーブを武器にすることが出来たそうです。「スクリューボールと共にこのカーブの習得が自分のストレートの球威を速く見せる効果に繋がった」と本人が言っています。この後、順調にエースの階段を登りますが、途中1992(平成4)年には、恩師のアイクさんが永眠。この精神的ショックは大きく、葬儀の場では棺の前で泣き崩れて立ち上がれず、同じくアイクさんに世話になり同席していた長嶋一茂らに抱き起こされなければ立ち上がれなかったのは有名な話です。ちなみに山本昌は現役時代は毎年シーズンオフに必ず渡米してアイクさんのお墓参りをしていました(今どうなのかはわかりませんが、実直な山本昌のことですから継続しているような気がします)。
この後1993(平成5)年、1994(平成6)年と何と2年連続で最多勝を受賞する超離れ技。1995(平成7)年、30歳の時に膝を痛めたのですが、この年のオフに鳥取市内にあるトレーニング研究施設「ワールドウィング」に行きました。そこの代表である小山裕史という指導者に出会えたことも大きかったですね。最初は「オフに名古屋で遊んでいても仕方がないから」という程度のノリで行っていたそうですが、そこで初動負荷理論を学び不要な力を抜いて腕と肘をしなやかに使うことでボールの回転数を増やすことを一緒になって模索した結果、50歳まで現役を続けることが出来ました。山本昌のおかげで(?)今ではこの「ワールドウィング」は誰もが知る存在になりましたね(笑)。
記録のことは書き始めればキリがないのでここらへんで終わりにしますが、山本昌の凄いところはいろいろな難局に出会った時も、決して手を抜かず(途中に多少不貞腐れたりもしましたが)、素直な気持ちで頑張り続けられたことでしょう。特にやはりアイクさんの指導に対して、最初は不満一杯だったのを、途中からアイクさんの情熱に負けて(そう思わせるアイクさんも凄いですが)そんな自分を恥じて素直に取り組んだことで沢山の人との出会いが強運に変わったのだと思います。堀場には大変に教訓になるお話でした。
ということで山本昌の3回に分けた物語は終了しましたが、この山本昌と星野監督とは面白いエピソードが未だいっぱいあります。なので次回は特別バージョンで、ドラゴンズ背番号物語「34」 星野監督とのエピソード編 を書きます。お楽しみに。
※写真は1993年秋の週刊ベースボールの表紙を誘った今中(左)と山本昌(右)。この年、この両左腕投手が17勝ずつを挙げて最多勝のタイトルを分け合いました。ちなみに山本昌はこの翌年も19勝を挙げて2年連続の最多勝の離れ技。

堀場さん頑張っていますね~貴兄のバイタリティーに感心しています。
さて山本昌さんの競馬好きは有名ですが、実際に現場で馬券を買うというあるテレビ番組で、1レースで400万円当てたシーンがありました。勝負感も凄い❗️ね~
高須さん お疲れ様です。体調は如何ですか?コメントをありがとうございます。お陰様で元気でやっています。大矢修司さんも交えて、高須さんとも一杯やりたいです。お待ちしていますよ(笑)。
こんばんは。
この辺の件は野球音痴の私も知ってます。
しかし、まぁ、これだけの文章を書き連ねる先輩の胆力に脱帽です・・・
智さん
へぇ、智さんでもここらへんのエピソードは知っているんだ。智さんが野球関係の内容にコメントをくれたことに、こちらがビックリしていますよ(笑)。文章を書くのは嫌いではないけど、そもそも手先が不器用な堀場が手先を使う場面がパソコンくらいしかないから。ボケ防止のためですよ(笑)。
この時って、山本選手以外にもあと一人出稽古に行っていませんでしたっけ?
良かった時代かもしれませんが、微妙に当時の中スポがフラッシュバックされるんです。
この時とは?最初に山本が放り出された時なら(笑)、西村が一緒ですね。その次に山本昌がアメリカに行った時には一人だったと思いますよ。