まいどまいどです。今年も遂に本日が最終日ですねぇ。今年のブログ更新の最後はやはりこのコーナーですね。今回は「35」「36」「37」のなかから「37」の与那嶺要元監督にフォーカスします。
この与那嶺さん、父親は沖縄県、母親は広島県出身のハワイ移民の日系人として生まれました。元々はアメフトの選手だったのですが、相次ぐケガで野球に転向しました。下の現役時代の成績を見てください。10年間の巨人時代に3回も首位打者に輝いたスラッガーだったのですが、成績が下降し始めた時にちょうど川上哲治が監督に就任。あっさりと戦力外通告を受けてしまいました。1961(昭和36)年に中日に移籍し、翌1962(昭和37)年に12年間の現役生活を終えました。

引退後はそのまま中日で打撃コーチなどをしていましたが、1972(昭和47)年に水原監督の後任として監督に就任します。やはり巨人を追われた水原監督が「打倒巨人」を誓って育てた、投手では星野仙一、松本幸行、渋谷幸春、稲葉光雄など。野手では島谷金二や大島康徳や谷沢健一などの素質を開花させるのを与那嶺監督が受け継いだ、という感じですね。

この与那嶺監督、普段はたどたどしい片言の日本語でしゃべる温厚な紳士なんですが、いざ試合、それも相手が巨人となると人が変わります。それもそのはず。当時の巨人の監督は自分を追い出した川上哲治です。試合前のミーティングでは川上監督のことを「あのテツの野郎」と言い、「テツだけには絶対に負けるな!」「テツが監督の巨人なんて全然強くない。自信を持っていけ」とゲキを飛ばしまくっていたのは有名な話です。就任一年目の1972(昭和47)年は2年連続Aクラスの3位で、対巨人戦は何と5年ぶりの勝ち越し(15勝11敗)。翌1973(昭和48)年も3位で、対巨人戦も16勝10敗と2年連続の勝ち越し。長らくチームに染みついた対巨人コンプレックスが徐々に消えていきました。そして遂に1974(昭和49)年には、いわゆる全員野球で20年ぶりのセ・リーグ制覇を成し遂げ、巨人のV10を見事に阻止しました。この年の東海地方は異常に盛り上がっていましたよ。当時、私は中学2年生。クラスの終礼時には燃えよ、ドラゴンズを歌っていましたからねぇ。
前述した様な主力選手の殆どが27~32歳という選手としては最も脂ののった時期だったということもありますが、もう一つ忘れてならないのは与那嶺監督の人使いの上手さです。毎年開幕前には東京目黒区の自宅に選手全員を招いて、奥様の手料理で決起大会を実行して選手全員の士気を盛り上げ意気に感じさせたかと思えば、当時は超合理的(今では普通のことですが)と言われた投手分業制を進めた近藤投手コーチを招聘し投手起用を任せたり、ミーティングで選手に強く当たった時には後にその選手の自宅に電話をしてフォローしたりしていました。「日本の浪花節とアメリカの合理主義のバランスが見事に取れていて、後々の自分の監督生活にも大きな影響を与えてくれた」。これは当時バリバリのエースだった星野さんが、ドラゴンズの監督時代の雑誌のインタビューに答えた時の一文です。
そして6年間で優勝1回を含むAクラスが5回という好成績で監督生活を終えました。名将ですよね、与那嶺さんも。
最後に。与那嶺さんにまつわるエピソードを3つ書きます。
①世界のホームラン王の王貞治さんは与那嶺さんのファンだった話 王貞治さんが小学生の頃、後楽園球場で選手にサインをもらおうとボールを差し出したけれど、誰もしてくれなかった。そんななか与那嶺選手だけがサインをして頭を撫でてくれた。王さんは子供心にこれに大感激し、その後、自分が選手になってからはファンに必ずサインをしてあげていたそうです。このエピソードは王さんがCMキャラクターだった「大正製薬のリポビタンD」の宣伝の時にも公開されていましたね。
②「貯金」という言葉を堀場が誤解した話 就任一年目の5月くらいのラジオのインタビューで与那嶺監督が「今は未だ順位とかは考えないね。ただただ貯金、貯金よ。ワタシ、貯金大好きだから(笑)」と言ったのを聞いて、堀場はてっきり本当の意味の貯金と勘違いして(つまりこの時の貯金の意味はチームの勝ち越し数のことだった)、「へぇ~、与那嶺監督はお金が大好きなんだぁ」と思っていました(笑)。
③「ガッツ」という言葉が今も番組名になっている話 与那嶺監督の口癖は上の「貯金」と「ガッツ」でした。「選手にはガッツあふれるプレイを望む」「勝つためにガッツを前面に出して戦う」「ガッツの無い選手は使わない」などなどとよ~く言っていました。今でこそ「ガッツ」という言葉は普通に使われていますが、当時は新鮮な響きでした。これに反応したのが地元の東海ラジオ。それまで「ダッシュ東海 GOGOナイター」とか「東海ラジオ ショーナイター」という名前でしたが、与那嶺監督の口癖と好成績にあやかって、1975(昭和50)年から「東海ラジオ ガッツナイター」と名前を変更。今に至っているんですよ。
本当に印象に残る素晴らしい監督さんでした。