まいどまいど。またまた更新が遅くなってしまいました。
久しぶりのドラゴンズ背番号物語。今回は41番を取り上げます。昭和46年以降こんな人が付けていました。
豊永隆盛投手(S43~46)、伊熊博一内野手(S47~48)、片貝義明捕手(S49~50)、谷沢健一内野手(S51 ~61)、カスティーヨ投手(S62 )、田中富生投手(S63~H5)、鳥越裕介内野手(H6~11途中)、河野亮内野手(H11途中)、朝倉健太投手(H12~15)、川岸強投手(H16~18)、浅尾拓也投手(H19~30)、勝野昌慶投手(H31/R1~現在)
若いファンや女性ファンなら「41」といえば浅尾ですよね。しかしおじさんファンの私は「41」といえば、軽快な「帰って来たウルトラマン」のテーマ曲で我々を大いに沸かせてくれた谷沢健一しかいない。この谷沢について、3回に分けて書きます。
谷沢は1969(昭和44)年秋のドラフト1位で、早稲田大学から入団しました。ちょうど主砲の江藤慎一が当時の水原監督とのゴタゴタで退団したので、その後を担う若きスターとして期待されました。実際、大学4年間でベスト9に選ばれること6回(これは高田繫(明治大学→巨人)の7回に次ぐ記録)、本塁打も18本(これは当時の田淵幸一(法政大学→阪神)の22本、荒川堯(早稲田大学→ヤクルト)の19本に次ぐ記録)、首位打者1回、通算打率.360という素晴らしい記録の持ち主でもありました。
1年目からレフトのレギュラーを獲得(当時は背番号14の外野手)。打率.251、本塁打11本で見事新人王にも輝きました。3年目から打率.290台を4年間続けました。下は5年目の1974(昭和49)年の日本シリーズで2打席連続本塁打を打った時の写真。この時も背番号は未だ14でした。
なかなか3割の壁を破れなかった谷沢でしたが、入団7年目の1976(昭和51)年を迎えるにあたり、知人からのアドバイスもあり、大学時代から慣れ親しんだ14を41に変更。打撃により一層専念するために、守備も外野手に再転向(昭和48~50年までは一塁手だったので)しました。その効果があったのか、この年はシーズンの初めから高打率をキープ。シーズン終盤まで巨人の張本と激しく競いました。
その張本は打率.35477で一足先にシーズンを終えました。追う谷沢が張本を抜くためには、10月19日のシーズン最終戦で3安打しなければならない状況でした。誰もが「谷沢の逆転首位打者は不可能」と思っていましたが、何と谷沢はその試合で見事に3安打しました。それも3安打目はシーズン最終打席で出たのです。その瞬間の画像がこれ。
打率は.35483。2位となった張本との差は僅か00006(6糸)で、未だに2位との差が最も小さい記録です。翌年も打率.312を記録。順調なプロ野球人生を送っていましたが、9年目の1978(昭和53)年から谷沢は地獄を見ることになります。
※この続きは後編で
宗さん、コメントをありがとうございます。コメントをいただいていたのですね。気づくのが遅くなりました。宗さんも詳しいですね。この頃は上記の選手に加えて、慶応の藤原投手(S43)→ヤクルト、立教の谷木(社会人の新日鉄室蘭を経てS47)→中日、小川(S42)→近鉄など本当に人材の宝庫でしたね。東都からは大橋(亜細亜)が東映に入団しましたね。それにしても最後の「堀場さんの苦闘を克服する語りは最高だから」は、お世辞とはいえ嬉しいお言葉ですね。ありがとうございます。