まいどまいど。「55」大豊さんの背番号物語の現役時代の思い出編です。
1年間の中日球団職員というキャリアを経て、1989(平成1)年にドラゴンズに入団。2002年までの14年間の現役生活(内、1998~2000年の3年間は阪神)でした。
自分がかなり熱くドラゴンズを応援していた時の主力選手でしたので、思い出は沢山あります。そのなかから3つご紹介します。
①外野守備がメチャクチャ下手だった。 大学時代は一塁手が本職でしたが、当時のドラゴンズの一塁手は落合博満。なので落合がFAで巨人に移籍するまではレフトを守っていました。足は遅いし、打球に対するカンも悪く、左中間に飛んだ打球を1回転2回転しながら追っていましたね。慣れないポジションだったので仕方がないのですが、草野球のレフトの様に1回転2回転しながら打球を追うプロ野球選手を初めてみました。これには投手陣からブーイングが上がっていたようです。しかしご本人の名誉のために言うと、一塁守備は逆にメチャクチャ上手く、これは投手陣から絶賛されていたようです。
②左投手を苦にせず見事な左中間への本塁打 キャリアハイを記録した1994年の6月のことだったと思います。東京ドーム左中間のドラゴンズ応援団席で対巨人戦を観ていました。相手先発の左腕宮本の速球を綺麗な一本足打法が捕らえました(まるで下の画像の様です)。打球は私の目の前に糸を引くようなライナーで飛び込んできました。こんな綺麗に左打者が左投手の速球を捕らえたのは未だに見たことがありませんね。凄かったです。余談ですが、このキャリアハイの年に、大豊さんは本塁打で未だ破られていない日本記録を樹立しています。何かわかりますか?わかる人は、このブログかFacebookに答えを返信してください。
③熱い男 大豊さんは星野監督が大好きでした。星野監督の前で2回泣いています。1回目は1991年9月下旬。試合前の全員ミーティングで星野監督が退任を発表しました。この時、人目もはばからず泣きまくったそうです。そしてこの試合で見事、惜別のサヨナラホームランを打っています。スゴイ!2回目は1997年9月です。この年、ドラゴンズはこの年から本拠地となったナゴヤドームの広さやフェンスの高さに順応出来ず苦しんでいました。ドーム野球へのチーム改革を推し進める星野監督が阪神の関川と久慈を獲得するために、この大豊と二番手捕手だった矢野の阪神への放出を決定。このことを遠征中の横浜のホテルの自室で星野監督が大豊に伝えた時でした。話を聞いた大豊の目からは大粒の涙が。室内は2人きりだったので、泣きじゃくったそうです。
これ以外にも大豊さんには面白いエピソードが沢山あります。下の下にある山本昌と山崎武司の動画も是非、開いてみてください。笑えます。

また堀場さんらしいマニアックなクイズで・・・
多分同一カードのホームラン数の
記録じゃなかったかなぁ~?と思って
ウキペディアを見ました。
やっぱりこの年広島戦で打った18本は
未だ日本記録でした。
当時はナゴヤ球場と広島市民球場で今より
狭かったとはいえ18本は凄いですよね。
広島に川口とか大野とかいた時代ですから
(二人とも全盛期は過ぎていたかな?)
やっぱり左投手でも関係ないってことですかね。
宗さん、コメントをありがとうございます。確かにマニアックなクイズですが、宗さんも直ぐに解答を予想できたわけですよね。負けず劣らずの十分にマニアックなお方だと思いますよ(笑)。