ドラゴンズ背番号物語 「45」森田幸一

 まいどまいどです。今回のドラゴンズ背番号物語は前回予告しました様に「45」森田幸一です。しかしその前に、「43」「44」「45」を背負った印象に残る選手だけを挙げてみます。

「43」宇野勝内野手(昭和52~53)、遠藤政隆投手(平成6~10)、小笠原孝投手(平成11~24) 「44」タイロン・ウッズ内野手(平成17~20)、郡司裕也捕手(令和2~5途中) 「45」森田幸一投手(平成3~7) ぐらいですかねぇ。

 さてその森田幸一投手。先ずは、忘れられない強烈な印象を残した初登板。1991(平成3)年の開幕ゲーム 対巨人戦(東京ドーム)の動画です。0分55秒あたりから見てください。5-5の同点で迎えた8回裏の巨人の攻撃。一死満塁で打者は中尾。もう絶体絶命のピンチ・・・。

 はい。結果は中尾を投ゴロ併殺打に打ち取って、見事にピンチを脱出しました。その後、ドラゴンズが内野ゴロの間に1点をもぎ取り勝利。開幕戦での新人投手の勝利は22年ぶりの快挙でした。しかも森田が凄いのはピッチングだけではありません。4日後の広島戦(ナゴヤ)では、投手ながらプロ初打席でいきなり本塁打を打っているのです。これは何と何と41年ぶりの快挙。7月はオールスターゲームにも出場しました。そして極めつけはこの年の8月。あまりにも森田の活躍ぶりが凄いので、「モリタはスゴイ!」というタイトルのレコードが発売されました。作曲はあの「青春時代」を歌った「森田公一とトップギャラン」の森田公一。歌ったのはその森田公一と森田健作。完全に森田の活躍に乗っかった便乗商法ですよね(笑)。いきなりレコードまで出させる新人なんて過去にいなかったです。

 このルーキーイヤーで森田は50試合登板で10勝3敗17セーブの断トツの新人王に輝きました。翌1992(平成4)年は41試合に登板。6勝5敗4セーブ。やや数字は落ちましたが、1年目を上回る91イニングを投げるなど、十分にチームに貢献しました。しかしこの2年目の途中から森田は、当時の首脳陣の自分への起用法や中継ぎ投手に対するチーム内の立場などに不満を持っていました。そしてその2年目のオフにその思いを球団にぶつけてトレード志願をしてしまいました。この志願が以降の森田の人生を大きく変えてしまいました。

 当時、マスコミを通じて発信されていた情報は ①森田はトレードで在京球団に行きたがっている ②その理由は東京に愛人らしき女性がいるから(森田は入団時に既に結婚していた) ③更にその愛人は暴力団関係者とも絡みがあって、森田は追われて失踪している という様なものでした。実は私もこの背番号物語で森田を取り上げるまでは完全にこの情報を信じていました。なので、「中日投手 森田幸一」と検索すると暴力団関係とか失踪とか愛人問題などの言葉が出てきて、今も消息不明で写真とか見つからないだろうな・・・、と思い込んでいました、ホントに。そしたら何と何と。しっかりと今の写真があるではないですか!👇

 肘の故障や年齢的な衰えもあって、1995年オフに5年間という短いプロ野球選手生活を中日で終えました。その後は地元の関西に戻り、某企業で管理職を勤めつつ、兵庫県の野球教室でピッチングコーチも務めていたらしいです。実はこの画像は2020年12月頃の日刊SPA!という雑誌に掲載されたものらしいです。そしてその雑誌で森田は、トレード志願の件の真実を穏やかに語っています。はっきり言って私が事実だと思っていた内容は、完全にマスコミの捏造記事でした。詳しいことを知りたい人は「日刊SPA! 森田幸一」と検索してみてください。直ぐにたどり着きます。

 いやぁ、それにしてもマスコミの捏造(悪意が無かったとしても、事実ではなかった)は凄いわぁ。現代の様に、選手や一般人からの情報発信が簡単に出来る時代ではなかったので、捏造記事だけがグングンとスピードを上げて拡散してしまったんでしょうね。

 今回ほど、この背番号物語、つまり森田幸一をピックアップして良かったぁ、と思ったことはなかったですねぇ~。完全に森田幸一の後半の人生を誤解したまま死んでいくところでした。

 中日ファンの皆さん、この森田幸一の真実をご存知でしたか?