ドラゴンズ背番号物語「51」 守備のスペシャリスト 正岡真二

まいどまいどです。ドラゴンズ背番号物語、今回は51番に飛びます。その前に、前回の47番の次の48番~50番までの主な選手を列挙しましょう。 

 「48」 小森哲也(S61~H9)12年間も頑張った小柄な内野手で、一時レギュラーになれそうでしたが、やはり打力と体力に難がありました。井端弘和(H10~14)入団から5年間はこの番号でしたね。その後は6を付けました。溝脇隼人(H25~R5)タイプ的には小森とそっくり。この選手もなんだかんだで11年間頑張りました。

 「49」 坪井新三郎(S46~50) 阪神や日本ハムで活躍した坪井選手の父親ですね。 ラルフ・ブライアント(S63) 近鉄に無償トレードしたら大活躍した、エディマーフィーに似たあの外国人選手です。 種田仁(H10~13途中) この頃は代打専門になっていましたね。余談ですが、極めて女癖が悪いそうです。 マキシモ・ネルソン(H20~24) 長身の黒人投手でした。日本に銃弾を持ち込んだことでも話題になりましたね。 

 「50」 金山卓嗣(仙吉)(S45~50)S51以降は44を付けました。現役引退後は星野監督付広報などをしていました。音重鎮(H8~11)入団時は40。広島にトレードになりましたが、H8からドラゴンズに復帰。この年は五番打者として活躍しました。 清水達也(H30~現在) リリーフ投手になって素質が開花。今年はクローザーかも。

 で、正岡の「51」です。昭和43年に愛媛県今治南高校から入団。昭和55年までこの番号を付けました。オールドドラゴンズファンなら誰もが知っている守備の名手ですね。昭和47年まではショートにバートン・シャリーというメチャクチャ守備力が高い外国人がいたので、一軍での出場機会があまりありませんでした。しかしそのバートは解雇され、昭和48年からはロッテから移籍の広瀬宰がレギュラーになりました。ただ、この広瀬は膝が悪く守備範囲が狭いのが難点でした。なので、試合の後半にはこの正岡が守備固めとして起用されるようになりました。優勝した昭和49年には112試合も出場していますが、打席数は何と、68しかありません。翌昭和50年、正岡は当時大洋にいたミヤーンという外国人の打法(前かがみになってバットを寝かせて構えるクラウチングスタイル)を真似て、打率.267というキャリアハイの成績(打席数も204と格段に増えた)を残し、レギュラーに近づきました。しかしその後は今一つ殻を破れずに、ドラゴンズのショートは8番打者で、打席が回るたびに代打が出て、ショートの選手がコロコロ変わるという状況が続きました。そこに現れたのが宇野勝です。高卒3年目の昭和54年から不動のレギュラーに定着。結局、正岡は守備固めに逆戻りとなりました。しかしショートだけでなくサードやセカンドも起用にこなしたので、貴重な戦力として重宝され、何と昭和59年まで17年間も現役を続けました。凄いですよね。本当に印象に残る選手でした。

 余談ですが、この正岡と亡くなった大島(正岡よりも1年下)とこちらも亡くなった三沢(正岡よりも3年下)の3人は独身生活が長く、よくつるんで遊んでいたそうです。

 そして最後にクイズです。昭和49年と昭和57年の2回の優勝を現役選手として経験しているのは、正岡以外にも星野、木俣、谷沢、大島、藤波、鈴木孝政などがいますが、そのなかで唯一、正岡だけが持っている記録(?)があります。それは何でしょうか?わかる人は是非、お答えください。解答は適時、発表します。ヒントは「記録」と書きましたが、厳密には記録ではありません(笑)。