ドラゴンズ背番号物語「57」 3人の名外野手を生み出した出世背番号! その1 平野謙のその1

 まいどまいどです。久しぶりのドラゴンズ背番号物語です。今回は「57」。この背番号はドラゴンズでは出世番号で、縁起の良い番号です。そして3人の名外野手とは、古い順に平野謙(S54~57)、彦野利勝(S58~H3、H10)、(蔵本)英智(H11~19)。いずれも地元出身です。

 今回は先ず平野謙を取り上げます。平野は名古屋市中村区の出身で、実家は平野金物店を営んでいました。が、幼少期に父と母が亡くなり、その後は姉の洋子さん(現在エッセイストとして東海地方で活躍中の内藤洋子さん)がお店を切り盛りし、弟の謙もお店を手伝っていました(余談ですが、その時の様子が1996年に「ようこそ青春金物店」の名でNHKで連続ドラマ化されました。勿論堀場は観ていましたよ(笑))。そして中学3年生の時にお店は廃業。平野は犬山市に転居しました。

 その後、犬山高校→名古屋商科大学を経てドラゴンズにテスト入団しています。その時は投手で、背番号はまるでコーチの様な81。いかに期待薄の選手だったかがわかります。肘痛もあり、投手としてはなかなか目が出ず、当時の広野コーチの進言もあり外野手に転向します。それでも活躍の場はなく、入団3年間は一度も一軍での出場機会無し。大卒選手のボーダーギリギリと言われる3年目(昭和55年)が終了したシーズンオフ。平野はクビを覚悟しました。

 しかしここから運命は徐々に好転します。この年のオフに監督に就任した近藤貞雄は、各選手が自分自身のセールスポイントを磨いてPRすれば、それを最大限に活かすと公言しました。つまり守備が得意なら、苦手の打撃を克服する練習をするよりも、更なる守備のレベルアップをする練習をしなさい、という意味です。なので、自軍を攻撃型の選手と守備型の選手に分けて起用。前者はスタメンで使って攻撃力をアップする。リードしたら終盤は後者を使い、守りを固めて逃げ切る、というものです。つまり、オフェンスとディフェンスを分けるアメフト野球です。

 このピースにピタリとハマった選手の一人が平野です。元々投手だったので強肩でコントロールもよく、更に外野守備も鍛えて4年目の昭和56年にはいきなり110試合に出場しました。ただ殆どが試合後半の守備固めだったので、その年の打席数は121しかありません。5年目の昭和57年。センターのポジションを豊田成祐と競っていました。豊田の方が有利な状況でしたが、オープン戦で豊田はロッテの三宅宗源投手から指に死球を受け、骨折。その隙に平野が起用され、あれよあれよという間にレギュラーの座をつかみました。

 この年は一番打者の田尾安志が絶好調。安打で出塁すると、二番の平野がキッチリ送りバンドを決めて得点圏に進めます。それをモッカ、谷沢、大島、宇野らで返すという理想的な形が出来上がり、恐竜打線と呼ばれました。平野は極めて短期間で重要な役割を担う様になりました。ちなみにこの年の犠打(送りバンド)は51。当時のシーズン新記録でした。

 また守ってはセンターからダイレクトでストライク返球して二塁走者を本塁で憤死させるシーンをよく見ました。当時の捕手の中尾のブロックも素晴らしく鉄壁でした。よって徐々に、相手は二塁走者を本塁に突っ込ませなくなり、この時点で失点を防いでいたことになります。投手にとっても、大変に頼もしい存在だったんですよね。  ※続きは次回