ドラゴンズ背番号物語「57」 3人の名外野手を生み出した出世背番号! その1 平野謙のその2

 平野謙の2回目です。1982(昭和57)年の優勝に大貢献した平野。地元出身ということもあって、球団としても売り出したかったのでしょうか。その翌年からは背番号が3に変更されました。

 更に、不動の一番打者だった田尾が1984(昭和59)年を最後に西武ライオンズにトレードになったので、1985(昭和60)年からは平野が一番打者となりました。そして1986(昭和61)年には盗塁王(48個)のタイトルも獲得。押しも押されぬドラゴンズのスターになりました。

 が、しかし。1987(昭和62)年に星野仙一氏が監督になると、平野の状況が一変します。レギュラーを獲得し、いつの間にか安心してしまったのか、平野からハングリー精神が失せてしまいました。一番打者なのに、いきなり初球を打って凡退する。それを指摘されると「オレの左打ち(スイッチヒッター)は改造されたものだから粘れないんだ」と言い訳をする。塁に出てもリードが小さく、頭から帰塁することもなくなった。島野コーチがいくら「塁に出たらもっとリードを取れ。帰塁は全て頭からだ」と言っても、それを守るのは最初だけ。直ぐに戻ってしまいました。そして平野の放出が決定的になったのが、9月に富山で行われたヤクルト戦。一塁走者だった平野は後ろを振り返りながら走り、楽々ホームインのケースを刺されてアウト。プロとは言えない恥ずかしいボーンヘッドを犯してしまいました。言い訳や手抜きプレイを最も嫌う星野監督がこのミスを許すはずもなく、この年のオフに西武森監督からの要請もあって、平野をトレードで放出しました。相手は小野という一軍半レベルの右腕投手でした。

 明らかにドラゴンズにとって不利なトレードと思われましたが、小野は翌1988(昭和63)年に18勝4敗という好成績で優勝に大貢献しました(たった一年だけでしたが)。また平野も西武ライオンズの黄金時代の二番・ライトとして攻守に大活躍。石毛らと共に全国区レベルの選手になりました。西武では1993(平成5)年まで活躍。更に1994(平成6)年から3年間はロッテで頑張りました。結果的にはドラゴンズを出て良かったのではないでしょうか。

 ちょっと前まではNHK BSの人気番組「球辞苑」にも出演し、最近はYouTubeなどで元気な姿を見ることが出来ます。