ドラゴンズ背番号物語「57」 3人の名外野手を生み出した出世背番号! その2 彦野利勝のその1

 今回は彦野利勝選手を取り上げます。この彦野は地元名古屋市の愛知高校の出身です。高校時代は投手でしたが、昭和58年に外野手として入団しました。最初の4年間、一軍出場は殆どありませんでした。この期間について本人は「一生懸命にやっていなかったわけではないのですが、やはりどこか甘かった。このままではいけない、と思いつつも遊びの方が楽しかった(ちなみに当時のドラゴンズの若手では、この彦野と一歳年下の藤王が「夜の帝王」と呼ばれていたらしい)」と、後日スポーツ雑誌「Number」のインタビューで認めています。

 段々、首筋に寒さを感じ出した4年目が終了したシーズンオフ(昭和61年秋)。星野仙一氏が監督に就任します。その年の浜松秋季キャンプ。プロに入団して初めて死ぬほど練習した(させられた)そうです。しかし死ぬほど練習をしたからといって、直ぐに結果が出て直ぐにレギュラーになれるほど、プロは甘くありません。ましてや同じ外野手にはスター選手に成りあがった、背番号「57」の前任者で地元出身の平野謙がいました。そして5年目(1987 昭和62年)は開幕一軍ベンチには入ったものの、控え選手でした。

 しかし運命とは不思議なものです。57番の前任者の平野が、当時センターのレギュラー候補だった豊田誠佑の死球欠場からチャンスを掴んだように、この彦野も平野の死球欠場(骨折)から徐々にチャンスを掴み始めました。そしてこれがなかなか泣かせる話なんです。 ※続きは次回

 下の画像は正念場の5年目を迎えた年の、ファンブックの彦野のページです。片面1ページの1/2と扱いも小さいですね。それもそのはず。成績表にあるように、4年間の内、最初の2年間は一軍出場無し。ようやく3年目で11試合。4年目で19試合しか出ていない選手でしたからねぇ。それに【ひとこと】欄で書いていることも「免許が取りたい」って・・・。レギュラーを獲るぞ、とかの意気込みが全く感じられません(笑)。星野監督はこれを読んで、さぞかしガッカリしただろうなぁ。