今回は彦野が平野からレギュラーの座を奪い取るキッカケとなったストーリーです。
1987(昭和62)年4月16日の対広島戦で、当時レギュラーだった平野謙が死球で右手指を骨折。選手登録を抹消されました。代役としてはベテランの大島、藤波、石井、豊田などがいました。しかしここで星野監督は敢えて、2年間、いや入団以来4年間で僅か30試合しか出ていない彦野をスタメンに起用しました。きっと今後のドラゴンズのためには若手を起用した方が良い、と思ったのでしょうね。ちなみにこの時の星野監督は「平野も彦野も似たようなもんだ。背番号も同じやから、57番(彦野のこと)、オマエが行け!」と言ったそうです。しかし直ぐに結果は出ません。17日と18日の2試合で9打席で3三振。出塁も1回だけという結果に終わってしまいました。当然、マスコミは「彦野には荷が重い」「平野の穴は大き過ぎる」などと書きました。
そして迎えた19日の対阪神戦。試合は11-3で中日が快勝。その試合で彦野は6打数4安打の大暴れ。今までのうっ憤を晴らしました。そしてゲームセットの直後。星野監督を取り囲んだ大勢の報道陣を前に星野監督が吠えました。「ザマアミロ!ヒコ(彦野のこと)は必ず、やってくれると言っただろうが!」「お前ら(報道陣)は結果だけしかみようとせんからな。どうしてプロセスの大切さを理解しようとしないんだ。わかったか!」とだけ言って、ニヤリと笑ってインタビューを打ち切ったそうです。星野監督は、前年の浜松秋季キャンプから彦野が目の色を変えて野球に取り組み始めたことをちゃんと知っていたのです。
一方の彦野は後日、この試合についてのインタビューに「実を言うと、前の2日間は殆ど眠っていなかったんです。悔しいし、情けないし。もうあの試合は開き直ってやるだけでした。必死で死んだ気になってやるしかない。それでダメなら仕方がない。ホームインした時に星野監督から『ヒコ、ナイスバッティング!』と言われた時は、もうどうなってもいいと思いました。ザマアミロ、の話も新聞記者の人から聞きました。監督さん、そこまで考えてくれていたんですね。今まで以上に頑張らなければ、と思いました」と答えています。
その後、何度かの紆余曲折はあったものの彦野が成長。この年は101試合に出場。打率.254で11本塁打で30打点を記録。センターのレギュラー獲得に大きく前進。ライバルで先輩の平野はこの年のオフに西武にトレードとなりました。そして彦野の6年目のシーズンでもある1988(昭和63)年を迎えます。 ※続きは次回。

確かに、彦野が出始めた時、彦野~?
他にも一杯いるじゃんって
思いましたからね。
まぁ元ピッチャーだし肩はいけるかなぁ7
打撃どうなのって思いましたからね。
でも後にベストナインやゴールデングラブ
取ったりして大成しましたもんね。
でも、彦野と言えば、一塁で起きた例の
出来事ですよね。これで一話はいけますね。
宗さん ありがとうございます。サヨナラホームラン、でもホームを踏んだのは代走だったという、あの事件ですね。次々回に書きます。