ドラゴンズ背番号物語「6」

 プロ野球選手の代名詞である背番号。私がドラゴンズファンになった1971(昭和46)年から今年まで、ドラゴンズの背番号別に選手を紹介。毎回、私が独断と偏見で(笑)そのなかから1人をピックアップ。思い出やエピソードを書きます。※前回のブログでもこのコーナーを設けておりました。ある人から「是非もう一度、このコーナーを復活させて」とのリクエストがありました。

 「6」。いい背番号ですね。投手と捕手以外の選手にはしっくり落ち着く感があります。★1971(1年間) B・シャーリー 内野手 ※「2」にも登場しましたね(2年目に「2」を付けたので)。★1972(1年間) 江島巧 外野手 ※強肩の外野手でしたが、この年を最後にロッテに移籍。★1973~1980(8年間) 井上弘昭 外野手 ※昭和49年の優勝に貢献した「三番井上タイムリー」の井上。★1981~1984(4年間) 正岡真二 内野手→コーチ ※オールドドラファンならご存知「華麗な守備の正岡も~♫」の正岡。★1985~1986(2年間) 上川誠二 内野手→コーチ ※小柄だがガッツの塊の様な選手。落合との1:4のトレードでロッテへ移籍。★1987~1993(7年間) 落合博満 内野手→監督 ※選手としても監督としても実績は申し分なし!★1995~1997(3年間) 金村義明 内野手 ※FAで入団したが、全くの期待外れ。★1998~2002(5年間) 久慈照嘉 内野手 ※阪神から移籍した守備の名手。★2003~2013(11年間) 井端弘和 内野手 ※「アライバ」コンビの二遊間は鉄壁だった。★2014~2021(8年間) 平田良介 外野手 ※大阪桐蔭から鳴り物入りで入団したが・・・。最近は野球以外の話題の方が多い。

 というわけでやはりレギュラークラスの選手が多いですね。自分のなかでは井上弘昭が印象深いですね。広島からの移籍(交換トレード)ですが、よく広島がこんな良い選手を出したなぁ、という感想です。1975年にあと1本ヒットを打っていたら首位打者になれたのですが、その最終打席は何と死球でしたねぇ。あとルックスが強面なのも(笑)。しかしここで取り上げるのは井端です。井端自身の実績やエピソードではなく私 堀場とのご縁を書きます。

 ご縁と言っても直接話をしたわけではありませんが、井端は私が発掘し、当時の星野監督に起用を進言した選手だからです。前回の「5」で書きましたが、私は仁村二軍監督見たさに1998年夏に福岡雁ノ巣球場にダイエーとの二軍戦を観戦に行きました。その試合は確か3-9でダイエーに完敗してしまいましたが、他の選手よりも明らかに元気に大声を出して、三塁手としてキビキビ動いている新人選手が目に留まりました。それが当時、背番号「48」を付けた井端でした。長崎市の自宅に帰ると直ぐに私は星野監督に「今日、雁ノ巣球場へ二軍戦を観戦に行きました。試合は残念ながら3-9で負けましたが、一人の選手が目に留まったので、記させていただきます」という様な書き出しで、その日の井端の動きを中心にした内容のファンレター3枚書きました(当時は2~3か月に1回くらいのペースで書いていましたからねぇ(笑))。その甲斐あって(?)、何と井端は3年目の2000年~一軍に上がり、その後の活躍は皆様もご存知の通りです。なので、井端の育ての親は私だ、と自負しているのです(笑)。

 ま、これは冗談ですが、名手となった井端も下積み時代は当然ですが苦労したようです。当時は同じショートを争う立場にあった福留の練習の当て馬にされたことや、チーム内での自身の生き残りをかけて守備と右打ちを磨こうとしたがなかなか直ぐには結果が出ずに仁村二軍監督から毎日の様に怒られて心が折れそうになったことなどを自身のYou Tubeで語っています。なかなか面白いですよ。

 173㎝・70Kgと野球選手としては小柄ながら、この様に大きく足を上げる一本足打法もかっこよかったです。一時、私も真似ましたがやはりなかなかうまくいかず諦めました。あと、2013年のWBCで九回二死から代打で同点タイムリーを打った勝負強さにはシビレましたね。「やったぁ、ドラゴンズの井端ここにあり!」とテレビに向かって大声で叫んだことを憶えています。