今回は「16」です(「15」は西沢道夫の永久欠番ですからね)。先ずは1971年以降の歴史を。伊藤久敏投手(1967~1974)、土屋正勝投手(1975~1983)、安木祥二投手(1984)、清水治美投手(1985~1986)、宮下昌己投手(1987~1989)、山田和利内野手(1990)、ライアル外野手(1991~1992)、今野隆裕投手(1993~1994)、山田博士投手(1995~2001途中)、森野将彦内野手(2001途中~2003)、佐藤充投手(2004~2009)、小川龍也投手(2010~2013)、又吉克樹投手(2014~現在)
投手、それも意外と左腕投手(伊藤、安木、清水、今野、小川)が付けていたことが多いですね。しかし正直言って、これ!というほど活躍した選手が見当たらず、誰を書こうか迷いました。土屋は銚子商業出身の甲子園優勝投手。大きな期待を背負って入団しましたが、勝ち運に恵まれず(土屋が先発して好投しても、リリーフの鈴木孝政がことごとく失敗し勝利投手の権利を消してしまった)。それにそもそも土屋を憶えている人がいないでしょう。それとも現在付けている又吉。今シーズンは抜群の安定感を見せてくれました。FAで他球団に行かないことを祈る。ただ私自身が又吉について書けるほど、沢山のネタを持っていません。というわけで消去法的に今回は宮下投手を書くことにしました。
宮下という名前をを知らなくても「巨人のWクロマティからパンチを喰らった男」と言えば、わかるのではないでしょうか(笑)。1983年に東京の日大三高からドラフト6位で入団しました。186㎝、83Kgというガッチリとした体から投げ込む最速154Km/hのストレートは圧巻でした(ややコントロールは悪かったけど)。4年目の1986年には40試合に登板し3勝しました。そして星野監督1年目の1987年に背番号16をゲット(それまでは60)。この年の6月に熊本藤崎台球場でクロマティに死球をぶつけて大乱闘を引き起こしてしまいました。しかしこの年は中継ぎで50試合に登板し5勝3敗2セーブというキャリアハイの結果を出しました。闘将星野監督好みの投手でもあったので、試合前の練習ではヘッドロックをかけられる(←これ、星野監督の愛情の証です)など可愛がられていたみたいです。そんな星野監督との思い出を語っている動画を見つけました。特に最初から7分5秒くらいまではいろいろと勉強になる内容を語っていますので、是非アクセスしてみてください。👇
最終話 99の辛さが全て吹っ飛ぶ、星野監督との思い出 – YouTube
この動画の中にもありますが、ドラゴンズ時代から肩痛に悩まされており、注射でだましだましやってきたが、状況は好転せず。1989年オフには西武にトレードになりました。その西武では一軍登板はなく1991年に引退しました。
引退後は東京吉祥寺で飲食店(ステーキハウス)を立ち上げ軌道に載せましたが、入居していたビルの問題で立ち退きを余儀なくされてしまいます。その後移転先を探すも見つからず、閉店しました。余談ですが、実は私、このステーキハウスに2回行って、宮下と話をしています。写真とか無いのでその証がないのですが、気さくなキャラでした。勿論、ボリュームもたっぷりで美味しかったです。その後は調布市の実家の米屋を継ぎながら、少年野球の指導を行っているみたいです。