まいどまいどです。久しぶりに驚愕の記憶を書きます。「悲しい別れ」つまり「死別」について2回に分けて書きます。
私、現在61歳です。お陰様で今までもそして今も大きな病気やケガもなく過ごしています。両親(父:90歳、母:87歳)も元気で健在です。しかし過去には何名かの友人や知人や恩師などが死去しています。誰でもそうでしょうけれど、歳を重ねると「死」が更に重く感じられ、ショックや悲しみが増します。そして何故かそれが続く時期がありました。
★2015年11月 吉田友逸さん死去 ⇒ この方は(株)ポッカコーポレーションで私より3年先輩です。なので57歳か58歳の時に亡くなられたのだと思います。ポッカには珍しい(笑)理論派で、本社スタッフとしていつも冷静で的確な意見を述べられる方でした。私も現役時代、大変お世話になり何度も救われたことがありました。お顔は広島カープの佐々岡監督に似ています(笑)が、ドラゴンズファンです。
2015年頃は既に体調を崩されておられたので、体調と相談しながら飲み会にも顔を出していただいていました。この年の6月にも飲み会でご一緒しました。宴の最中、吉田さんが私にこう言いました。「お前(私のこと)はホントにアホやなぁ。お金にもならないOB会のことを一生懸命にやって(注:当時も現在もですが、私はポッカOB会の副会長を任されており、年に一度のOB会盛り上げのためにいろいろと活動しております)。でもな、俺はそういうアホな堀場さんが大好きやねん。俺が60歳になって定年したら、俺も必ず手伝うからな。それまで頑張ってな」と。そして10月頃の飲み会に私がお誘いした時、電話で「ありがとう。う~ん行きたいんだけど、今飲んでいる抗がん剤がちょっと身体に合わなくてさぁ、体調が良くないんよ。今回はご遠慮するわ。また誘ってよ」と言われました。これが最後の会話になりました。12月のある日、帰宅すると一通の喪中ハガキが届いており、差出人をみると心当たりのない名前でした。文面をよく読んでみたら友逸さんが死去したと記してありました。そうです差出人は友逸さんの奥様だったのです。メチャ驚きました。大ショックでした。ポッカOB会の仕事に携わるといつでも友逸さんを思い出します。「俺も必ず手伝うからな」はもう守られることのない約束になってしまいました。「友逸さん、約束は守らんとダメですよ!でももう許しますよ」。友逸さん、安らかに。
★2016年8月 高橋澄子さん死去 ⇒ この方は(株)ポッカコーポレーション東京東営業所時代の得意先で、錦糸町にある菓子問屋「(株)タカハシ」様の専務です。きっと76歳くらいで亡くなられたと思います。仕入れを担当されていたので、時にはモメることもありましたが、澄子という名前が私の妻と全く同姓同名なのですごく親近感がありました。専務も私を「堀場さん」ではなく「ツトム君」と呼んでくれました。更に専務のみならず娘さんや息子さんとも仲良くさせていただき、カラオケ大会やったり船上結婚式に出席したりもしました。私が九州に転勤になった時には盛大に送別会もしていただきましたし、私がポッカを退職しても仲良くさせていただきました。
2016年の7月、東京に行く用事があり土曜日の朝に東京に着きました。用事は昼からなので少し時間がありました。「いきなり前触れなく(株)タカハシさんを訪問して驚かせようかな」とも思いましたが、「ま、それもちょっと失礼だし、またいつでも会えるだろう」と考え、実行しませんでした。そして8月16日(火)、昼食中の私にある人から一本の電話が。「堀場さん。良い話ではありませんが、タカハシの専務さんが亡くなられました」。青天の霹靂とはまさにこのこと。最初は全く意味がわかりませんでした。半月後の9月2日(金)、帝国ホテルで行われた「お別れの会」(下の画像。隣はご主人で社長の利雄さん)に出席させていただきましたが、泣けて泣けて仕方がなかったですね。「何故あの時、錦糸町に足を向けなかったんだろう・・・」。今でも後悔しています。これ以降、後悔しないためにも極力、人には会う様にしています。