<飛び入り>ドラゴンズ背番号物語「55」 大豊泰昭その3 現役引退後の思い出~死去まで編

 大豊さんについてのブログの3回目(最終回)です。2000年のシーズンオフ。大豊さんは当時阪神に在籍していましたが、野村監督とソリが合わず、自由契約を申し入れました。それが認められて、大好きな星野監督のいた中日に復帰することが出来ました。しかし往年の力はなく、2002年のシーズンを最後に現役を引退しました。14年間の現役生活で277本のホームランをかっ飛ばしました。しかし3安打した試合でも、凡退した1打席を悩むような、完璧主義の不器用な大打者でもありました。

 引退後は中日のアジア地区担当スカウトとして、チェン・ウェイン投手の獲得などで貢献しました。そして一方では、名古屋市中区の地下鉄伏見駅のすぐ近くに「大豊飯店」という本格中華料理店をオープンしました。私はこの時既に(株)ポッカコーポレーションを希望退職して名古屋で働いていましたし味も美味しかったので、ランチタイムに利用しました。3回目に思い切って私の方から大豊さんに声を掛けました。星野監督から貰った年賀状を見せたところメチャクチャ驚かれ、同時に直ぐに意気投合。関東地区のレフトスタンドから声を枯らして応援していたことや、前回書いた巨人の宮本から放った弾丸ライナーホームランの話などで盛り上がりました。とても気さくで、ダジャレや冗談を沢山話してくれましたねぇ。こうなると、エンタメプロデューサー(笑)の堀場は、直ぐに「こんなに楽しいお店なんだし、大豊さんのためにも沢山の人を集めて宴会をやろう」と考えてしまうのです。

 早速、ポッカ関連でドラゴンズファンだった人々や、名古屋で知り合いになった人々に宴会開催の連絡をしました。途中、集客情報を大豊さんに報告するために、大豊さんの携帯に電話することもありました。堀場の人生で初の、元プロ野球選手で、それも一流の成績を残したタイトルホルダー経験者でもある人と携帯電話番号を交換出来たことが、何とも誇らしかったなぁ。

 2006年10月10日に開かれた宴には15人くらいが集まってくれました。大豊さんは本当にサービス精神が旺盛で、私たちからのいろいろな質問に丁寧に面白おかしく答えてくれましたねぇ。そして合間をみて、沢山の記念撮影にも応じてくれました。3枚目のドラゴンズのユニホームを着て喋っているのがMC役の堀場です。

 いやぁ、本当に楽しい時間でした。しかし2010年頃、大豊さんが「白血病」に侵されている、というニュースが入る様になりました。最初は本当に信じられなかったです。あの立派な体つきで元気で、よく喋る大豊さんがよもや病魔に侵されているとは・・・。事実、大豊さんの体調不良もあって(立ちながらの接客がしんどかった)、2011年にお店は中華から軽食に転じ、店名も「大豊ちゃん」に変更。場所は岐阜県海津市のお千代保稲荷の参道に移りました。

 私も気になって、友人と一緒にこのお店に行きました。正確な日時は記憶していませんが、既にこの時に大豊さんの顔や手が紫色に腫れていたことは鮮明に記憶しています。衝撃でした・・・。そして悲しいかな「あ、きっと大豊さんに会えるのはこれが最後だなぁ」と直感しました。何か申し訳なくて、写真を撮る気になれなかったです。最後に少し会話をして握手して別れました。堀場のことをちゃんと憶えていてくれたのがすごく嬉しかったです。

 2015年1月18日午後10時41分。名古屋市内の病院でお亡くなりになりました。対外的には翌19日に報じられました。この19日のこともよく憶えています。17時30分頃、得意先との商談を終えて帰宅しようと歩いていた時に、当時私が勤務していたメリタジャパン(株)の増冨社長からの電話でこの悲報を知りました。増冨社長もドラゴンズ好き好き人間でしたので大豊飯店にご一緒したかったのですが、スケジュールが合わず、先送りにしてしまっていただけに「残念無念」という思いがあったのでしょうね。その増冨さんも2018年に死去されてしまいましたが。

 というわけで、本当に私の中で印象が強い大豊さんでした。最後に。大豊さんの死去を大々的に取り上げた中日スポーツの画像を添付して終えたいと思います。