私、今は毎日の様にこの車を運転しています(デリバリーの仕事がメインなので当然なんですが(笑))。

1979(昭和54)年。大学1年生になった9月に車の免許を取得。それから今日まで、スピードオーバーや駐車違反、携帯電話使用などはちょこちょことやってますが(笑)、何と無事故です。これからも免許を返納するまでは本当に、無事故で過ごしたいです。
しかし今後の人生に於いて、私が加害者にも被害者にもなる可能性が一番高いのもこの車の事故だと思います。であるならば、少しでも(先ずは気持ちだけでも)そのリスクを回避したい。あるいは不幸にも加害者や被害者になってしまった人に何かお手伝い出来ることはないか?と思って始めたのが、交通遺児育英基金(別名「あしなが育英会」)です。去年までは毎月¥1,000。車を運転する頻度がメチャ増えた今年からは¥2,000を寄付しています。
でもこのボランティアを始めたのも実は星野仙一さんがキッカケなんです。というのは、星野さんは星野さんが生まれる前にお父さんを亡くしており、女手一つで2人の姉とともに育てられました。つまり母子家庭だったんですね。幼少期はお父さんがいないことでいじめられて、あの星野さんが(笑)泣いて家に帰ってきたこともあったらしいです。その時お母さんは星野さんを「泣いて帰って来るくらいなら、その子にやり返してから帰って来なさい」と厳しく叱ったそうです。それから星野さんは「お父さんがいないことを言ったらお母さんが悲しむ」「この家は女しかいない。ただ1人の男である自分が女を守るもの」「弱い者いじめはしてはいけない」ことを学び実行したそうです。
小学校6年生になった時、星野さんは急に登校時間が早くなったそうです。家族も怪訝に思い尋ねたが、その理由を言わない。実は後にわかったことですが、星野さんのクラスに生まれつき足の悪い男の子(定金君)が転校してきて、その定金君を毎日背負って学校に行っていたのです。その定金君が「修学旅行に行きたい」というので、何と何人かの仲間と一緒に背負って連れて行ってあげたそうです。また星野さんは現役時代から、故郷の岡山県倉敷市にある障害児の施設に支援を続けていました。国立の施設のため金銭的な支援は受け取ってもらえないので、野球用具などを毎年送り、施設の屋上に簡単な野球が出来る広場「星野仙一 夢ひろば」も作ったそうです。体が不自由だったり、知的障害のある子もいるのでプレイが時々中断することもありますが、本当に皆がそれこそ無我夢中で頑張っている姿を見ていると涙が出て来たそうです。
ボランティアについては、選手にも「身体に障害のある人のため、親がいない子供たちのため、長期に入院したり不治の病に苦しんでいる人のために、施設や病院を訪ねて写真を撮ったり、サインしたり、バット一本や帽子一つ置いてくるだけでもいい。何か一つだけでも良いから人に役立つことをしなさい」と言って勧めていたそうです。星野さんのボランティアについての更なる考え方や私が受けた影響については次回、書きます。

↑ (2002年には星野さん(阪神タイガース)もあしなが育英会を支援していました)
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