燃えよ、ドラゴンズ【特別版】追悼 大島康徳

 皆さん、こんにちは。本当なら今日は一昨日の7月17日が誕生日だった高木守道の追悼文を書こうと思っていたのですが、タイミング的に大島康徳のことを先に書くことにしました。

 悲しいニュースでしたね。でも少し覚悟していました。もう何年も前から癌であることを公表していましたからね。

 私がドラゴンズファンになった1971(昭和46)年。その年の6月17日は私が初めてラジオでプロ野球の実況中継を聴いた日です。東海ラジオ「ショーナイター(今はガッツナイター)」でした。そしてこの日は大島のデビュー戦でもありましたので、よ~く憶えています。対ヤクルト戦で投手はアンダースローの会田。その会田から初安打を記録しました。最終回には石岡という投手からセンターバックスクリーンを超える大本塁打も打ちました。その日の実況アナウンサーだった犬飼さんが「試合には負けましたが、何とも頼もしい若者(勿論大島のこと。当時高卒3年目の20歳)が鮮烈なデビューを飾りました!今後が楽しみです!」と何度も絶叫していたことを思い出しました。とにかく「スイングが思い切りよかった」。三振も多かったのですが、三振しても悪びれずに、ベンチに戻るとまるで高校球児の様な大きな声で「すみませんでした!」と言って、ベンチを明るくしていたそうです。

 当時の監督が水原茂だったのも幸いでしたね。水原は黒い霧などで主力選手がごっそり抜けた後のドラゴンズの再建を任されていて、星野仙一、松本幸行、渋谷幸春、稲葉光雄、島谷金二、谷沢健一などの若手を積極的に起用していましたので、大島もそのお眼鏡にかなったということです。

 1974(昭和49)年の優勝にも貢献しました。当時、レギュラーの三塁手は島谷だったのですが、試合中に故障し戦列を離れざるを得ませんでした。その時に代役を果たしたのが大島でした。決してうまいとは言えない不安定な守備でしたが、それをカバーして余りある長打力でした。実際、優勝した後に島谷から「今年、優勝できたのはオマエ(大島のこと)が三塁をカバーしてくれたおかげや、ありがとう」と言われて感激したそうです。また1976(昭和51)年にはシーズン代打本塁打7本の日本記録も達成。翌年からはレギュラー選手として活躍しました。

 しかし1980(昭和55)年の開幕直後に交通事故を起こしてしまい、レギュラー一塁手の座は奇跡の復活をした谷沢に渡ってしまいました。その後は左翼手としてカムバック。1982(昭和57)年は序盤は不調でしたが、終盤戦には勝負強さも復活。9月26日の阪神戦、28日の巨人戦と2試合連続のサヨナラ打を放つという離れ業を演じました。特に後者は、当時難攻不落のエース江川をマウンドから引きずり降ろした後だっただけに、チームを優勝に導いたと言っても過言ではないでしょう。

 その後は好調の年と不調の年が交互にやってくるみたいな感じでした。そして1987(昭和62)年。大島と同期の1969(昭和44)年入団の星野仙一が監督になると(但し大島は高卒、星野は大卒なので年齢は4歳違う)、チームの若返り策から徐々に出番が減少し、その年のオフには日本ハムにトレードされてしまいました。しかし結果的にはこれが「吉」と出ます。またまた活躍の場を与えられた大島は、その後、350本塁打や2000安打も達成。日本ハムの顔になり、現役引退後は監督業も任されました。監督退任後は、大島のことを弟の様に可愛がっていた星野が自身が所属していたNHKに大島を売り込み、解説者として活躍しました。

 話は前後しますが、ドラゴンズで左翼手として復活した頃はよくナゴヤ球場で、レフト側外野席に陣取る阪神ファンとやりあっていましたね。名古屋の阪神ファンも過激で、スタンドから大島めがけてラジカセやビール瓶やハサミなど投げ入れていましたからねぇ。そりゃぁ怒りますよね。よく試合が中断していました。どこまでも熱血漢の大島でした。きっと今頃は3年前に亡くなった星野とドラゴンズの現状を憂いているんだろうな。ご冥福をお祈りします。