まいどまいど。先週の大島に続き、今週は高木守道の追悼文を書きます。昨年の1月17日に亡くなられました。もしも生きていれば1週間前の7月17日が80歳の誕生日でした。
私は今でこそソフトボールでキャッチャーをやっていますが、若い頃は野球で主にセカンドを守りました。草野球チームの時の背番号は勿論「1」。完全に高木守道になり切っていました(笑)。それくらい格好良くて憧れの対象でした。勝負強い打撃。長打力もあり。脚力や走塁技術も抜群。守備は代名詞でもある華麗なバックトスやカバーリングのスピードの速さ。そしてファンを本当に大切にする姿勢やオシャレに対する拘りなど。もうそのエピソードは無数にあり、報じられています。
なのでここで何を書くかを迷いました。高木守道について、他の人があまり知らないことで自分が知っている何かはないだろうか?と。例えば星野仙一なら、私が直接年賀状をもらったりホームページ上でやり取りをしたことは、他の人はほぼ経験のないかなりレアな内容だと思います。そして大島康徳なら、彼のデビュー戦が自分のプロ野球のラジオ中継を聴き始めた日と同じであること。
それでは高木守道について、あまり皆さんが知らないけど私が知っていることを書きます。それは2179分の13です。2179は高木守道が21年間の現役生活で出場した試合数です。そして13はその内「外野手として出場した試合数」です。「え~、あの名二塁手の高木が外野手をやっていた~?」と思うでしょうが、実際に1971(昭和46)年に13試合だけあるんですよ。
その1971年当時のドラゴンズの監督は水原茂(← 先週に引き続きの登場ですね(笑))。自分が連れてきた外国人選手である「バートン・シャリー」という内野手(ショート)をどうしても使いたかったみたいで、それまでショートを守っていた一枝修平をセカンドにコンバートして起用。セカンドの高木がライトに追い出される格好になりました。確かちょうど今くらいの時期の甲子園球場の阪神戦でした。実家の羽島市で、岐阜テレビでその阪神戦を観戦していた私は超ビックリした記憶があります。確かその試合では最後までライトを守っていたはずで、守備機会も3回くらいはあったと記憶しています。
ま、だから何なんだ?と言われればそれまでなんですが(笑)、きっとこのブログを読まれた方の中には「高木外野手」をライブで観た方はいないと思いますが如何でしょうか?
堀場さんは 夏に強く ご同慶の至りですワクチンは打ちましたか?
こうして高木守道さんのバッティングフォーム改めて見ると、典型的な昔の打ち方ですね~腰の回転でバットを払うように水平に振っていく⚾
また、全く残念な木下投手の訃報につきましては、LINEにて…
高須さん、コメントをありがとうございます。木下は本当に悲運としか言えませんね・・・。