まいどまいど。ゴールデンウィーク終盤、どの様にお過ごしですか?ウチは特にどこにも出かける予定もなくのんびりしています。でも昨日(5月4日 水祝)は名古屋市東区泉にあるイタリアンレストランに夫婦でランチに行きました。その後、お店近くの高級住宅地である「白壁」エリアを散歩し、沢山の豪邸を見て目の保養をしてきました(笑)。
さて今回の背番号は「22」です。プロ野球の世界では捕手や右腕投手がよく付けています。ドラゴンズの場合は、渡部司投手(1971~1975)、福田功捕手(1976~1980)、曽田康二投手(1981~1986)、山﨑武司捕手※入団当時(1987~2002)、アレックスオチョア外野手(2003)、柳沢裕一捕手(2004~2005)、藤井淳志外野手(2006~2007)、田中大輔捕手(2008~2010)、大野雄大投手(2011~現在) という系譜です。
さて今回フォーカスするのは、ドラゴンズのジャイアンこと山﨑武司です。山﨑は愛知県知多市の出身でてっきりドラゴンズファンかと思いきや、父親が九州出身なのでジャイアンツファンだったのには驚きました。愛工大名電高を卒業後、ドラフト2位でドラゴンズに捕手として入団。3年目の平成元年に一軍に上がりましたが、広島戦で正田に5盗塁を許し、捕手失格となりました。その後も一軍と二軍を行ったり来たりが続き、ようやく9年目の1995(平成7)年に66試合で16本塁打を記録。遅咲きの選手ですよね。翌1996(平成8)年、39本塁打を打ち本塁打王になり一気に花が開きました。そして中日時代の山﨑を語るに象徴的なのは1999(平成11)年9月26日の阪神戦(ナゴヤドーム)。
優勝街道驀進中のドラゴンズでしたが、この試合は9回表に阪神に逆転されて敗色濃厚。しかし9回裏に山﨑の逆転サヨナラ3ランが飛び出しました。打った瞬間のVポーズ(写真)とその後に一塁側ベンチの星野監督に向かって「おっさんボケ~!俺を出せば、ちゃんと打つんじゃ~!」と叫んだのは有名な話ですよね。

この山﨑、自分でも認める生意気な性格。言いたいことを我慢できない性格。それ故に星野監督を初めとする首脳陣とぶつかることも何度かあったようです。先ほどの「おっさんボケ~!・・・」という雄叫びはその象徴というわけです。その後、2002(平成14)年までドラゴンズに在籍しましたが、当時の山田久志監督と起用法を巡って衝突。平井投手との交換でオリックスに移籍しました。しかし移籍先のオリックスでも2年目に伊原監督と衝突。一時は引退も考えましたが、新生球団の楽天に移籍。そこで野村監督と出会って、遅まきながらの打撃開花。2007(平成19)年には何と39歳で本塁打王と打点王の二冠を獲得しました。
野村監督が退任後には星野監督が楽天の監督に就任。2011(平成23)年は同じチームに在籍しましたが、その年のオフ。引退を勧告する星野監督と現役続行を希望する山﨑とがまたモメて、結果的には星野監督とは喧嘩別れ。山﨑は中日に再度復帰し、現役最後の2年間を過ごしました。その時の背番号は「7」です。そして引退後もなかなか星野監督との溝は埋まりませんでした。しかし「母の死去をキッカケにようやく星野監督と話すことが出来た」と山﨑は、星野監督の追悼本のなかで振り返っています。
ドラゴンズの背番号22といえば、やっぱり山崎でしょう。そして山崎といえば、写真の阪神戦でのサヨナラ3ランですよね。優勝を確信させる1発でした。ところで山崎は知多市の八幡中学出身ですが、もう一人知多市八幡中学出身のドラゴンズ選手がいるんですよね。堀場さんは当然ごぞんじだと思いますが、その選手の背番号まではまだまだですよね。今年中に何とかその選手まで行ってくださいね。
宗さん、コメントをありがとうございます。知多市八幡中学出身の選手ですか?誰ですか?というのは嘘で、ハイ、あの山﨑とは真逆のイケメン選手ですよね。年内に41までですか~・・・。ガンバリマス(笑)。